最初、僕は身構えてこの映画を見ていた。
なんせアニメ界では期待されている細田守監督作品だ。
しかもこの時期、あえて「時かけ」だ。何かあるんだ。 その全てを見切り、映画が終わったら「ふむ〜」とか腕組みしながら、さも判ったふりをして色々語れるようにしとかないと…
映画が始まって最初に出たのは、炎天下の中、この映画の中心人物3人が色々ダラダラとしゃべりながらグランドで野球をしているシーンだった。

正直驚いた。
ゆるい。線がゆるい。
いわゆる感性にまかせたままの線を活かした様な、きれいにまとめていない線だ。
シルエットもゆるい。いわゆる「今風(いまふう)作画」。最近の若手アニメーターが好むタッチだ。
オープニングは担当アニメーターの持ち味を活かしたのかな?
場面が進む。 レイアウトはいつもの細田作品の感じで非常にまとまっているし、キャラクターもよくしゃべりよく動くのだが、やはり線がゆるい。
動き重視で、キャラクター設定の再現をあえて放棄した感じだ。どうもオープニングだけが特殊じゃないようだ。
 この作品って、全編このスタイルでいくの??と、こちらが戸惑っているうちに、主人公、紺野真琴はタイムリープを手に入れ、自分のためにタイムリープを使い始める。
妹に食べられたプリンを時間逆行して先に食べてしまう、 カラオケに行ったら何度も時間逆行して終了時間を延長する、焼肉が食べたいからと、焼肉を食べた日に時間逆行する…
タイムリープするたびに紺野真琴はゴロゴロ回転し、何かにぶつかる。
そうか、この映画は普通に見たらいいんだ。
「作画が」「演出が」「カットに込められた意味が」とか考えず、目の前で紺野真琴がドタバタ奮闘するのを笑ってみればいいんだ。
紺野真琴が時間を行き来し始め、映画が動き出したのを見て恥ずかしながらやっと気が付いた。普通に肩の力を抜いて楽しむ作品なんだと。
今回の「時かけ」の作画は非常に緩やかでおおらかだ。
ラフさを残したままの画が続出する。
ロングの時は群集の顔はかかない。アップになっても線(情報量)を足さない。
デザイン・骨格の正確さを要求しない。
だからといって、手を抜いているわけではない。 最近のアニメでありがちな、キャラクターの造形を統一して絵として認知させるのではなく、キャラクターの個性・感情に伴った動きを重視し、動きによってキャラクターを認知させようとしてい る。
これはとても難しいことだ。アニメーターに相当の力量を要求する。だから失敗した時はいくらオサレな作画をしててもお客には「何、この下手糞な絵」という印象になってしまう。
そこで取られた策が、まず前半は徹底的に主人公の紺野真琴の行動を追っかけることだ。
これにより、動きでキャラクターを見せるという試みは紺野真琴に集中する。タイムリープするたびにクルクル回り、何かにぶつかりながらも「やった〜!」と喜ぶ、現代風のおっちょこちょいで活発という愛すべきキャラクターが、元気いっぱいスクリーンを駆け回る。
同時に観客は紺野真琴と物語を共にすることで、紺野真琴に感情移入し、いつの間にか共感を刷り込まれている。
主役の行動と共に物語が進むという、キャラクター中心の作劇は、実に正攻法なやり方だ。
この正攻法をちゃんと出来ない映画が最近は多いんだけど…(僕がキューティー映画を評価するのは、この点なんだが、ここでは割愛する)
この映画でのシナリオは、今の若者を自然に描写することに細心の注意がなされている。台詞一つとっても、媚びすぎず、実に微妙な感覚で今の若者の会話を捉えていた。
役者の芝居もとてもナチュラルで違和感はなかった。この2つで「今の若者の物語を作る」という目的は成功していたと思う。
実際動き回る紺野真琴がとても身近に感じられていた。
紺野真琴は、次第にタイムリープを自分の欲望から、自分と他人の関係のため、さらには他人のために使いはじめる。
気付くと、相変わらず続く作画スタイルもさほど気にならなくなっていた。適度に入る笑いも自然に笑えるようになっていた。とてもリラックスして映画を見ていた。そのおかげで、最後の怒涛のおセンチ展開の際、自然に感情移入し、結果的に感動することが出来た。
ただ、作画の試みが全編に渡って成功しているかというとちょっと微妙だと思う。 動き重視の画は、動きで画面上の情報量を引き上げているので、止まったときに情報量が激小化する。 特に劇場の大画面だと結構厳しい。止め絵で決めるべきところはハイライトやブラシ影などを使ってきっちり決めるという使い分けをしても良かったのではないだろうか?ネタバレになるので書けないが、後半の重要なシーンは特にそう思った。
(C)『時をかける少女』製作委員会2006 |