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2011.06.18
アニメ・映画 ]
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文;氷川竜介(アニメ評論家)

 ここしばらくアニメ関係者の物故が相次ぎ、心押しつぶされることが多い。だが、クリエイターの「遺された想い」はフィルムに焼きついて残る。できうることなら、その想いよ人に届いて永遠に続け……というのが、筆者の切なる願いである。
 この『トワノクオン』は2011年11月26日に49歳で亡くなった飯田馬之介監督が、病床で生命の火を刻みこむようにして準備を進めていた全6話の連作劇場アニメだ(協力監督:もりたけし)。その「遺された想い」との心の共鳴に、震えが止まらない。

 舞台は未来の東京。目覚めた超能力に戸惑う少年少女たちと、それを狩ろうとする秘密の武装勢力の暗闘が続く。主人公クオンは若き能力者たちを守るため、自らを異形な者に変えて戦う……。これはどこか懐かしさのただよう設定の物語である。『Xメン』などとも共通する王道とも言えるし、肉体や精神の変化に戸惑いながらも仲間を見つけようとする思春期のメタファーともとれる。
 みどころはボンズならではの手描きアニメーションの魅力とパワー。川元利浩アニメーションディレクターによるキャラクターデザインの人物作画は、実に美麗で清涼感にあふれている。中村豊監修によるバトル映像はスピード感にあふれ、特にたたみかけるような重量感あるコンボ技のボディアクションは実にカタルシスがあって、濃厚な時間があっという間にすぎる。

 飯田監督の作品は、『デビルマン 妖鳥死麗濡編』、『おいら宇宙の探鉱夫』、『機動戦士ガンダム/第08MS小隊』など、いずれも緻密なディテールと、誠実で理詰めな描写の積み重ねで盤石に構築されている。ウソやごまかしを排して引き絞ったうえで、アニメ的な快感を解き放つようなところがあった。そしてSF、ファンタジー、特撮、漫画など過去の名作へのリスペクトに満ちあふれ、それも単なるパロディではなく「本質」を継承しようという意欲もみなぎっている。
 『トワノクオン』もまた、そんな飯田馬之介監督らしさが全編にみなぎる作品だ。そして今回は、いままで以上に「生きること」の本質へ近づこうとする気迫が感じられる。各キャラの生きざまの中には、誰と言わずそれぞれの痛みや懐疑が居座っていて、どことなくもの哀しい。しかし、だとしても「生き続けること」「生き残ること」には、それ自体の価値がある、それは乗り越えられると、全力で訴えかけてくるように感じられた。
 筆者は生前の監督とは短いおつきあいだったが、いつも全力でエネルギッシュに物事にあたりつつ、誰もが見落としそうなところへの気配りを忘れない、それでいて優しくもユーモラスな物腰に敬服していた。この作品も監督の性格が乗り移ったかのようで、上映中にあの巨体と笑顔が浮かんできて泣けた。

 なぜ生きるのか、なぜ戦うのか。いや、生きることそれ自体が戦いなのか。失ったものがあったとしても、未来へ向けた行動が大事ではないか。暴走するエネルギーならば、コントロールすればいい。能力者と機械化兵士、異形の者同士の戦いが不毛な連鎖であるなら、それを断ち切ればいい。すべては魂と志の問題なのだから、すべてはそこから始まる。永遠(とわ)も久遠(くおん)も、もはや自らには果たし得ぬことと知りながら、それでもなお限られた残り時間の中で、飯田馬之介監督がこの物語に託したものとは、そうしたメッセージだったように思える。
 誰もが崖っぷちの生命の危機を肌身で感じるこの時期、監督の遺した貴重なパワーを、ぜひ真っ正面から受け止めてほしい。

『トワノクオン』  http://www.towanoquon.com/

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2011.03.20
アニメ・映画 ]
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数土直志

 1979年に世に誕生した『機動戦士ガンダム』(ファーストガンダム)が、制作当初のスタッフ、関係者の思惑を大きく超えて大ヒットとなったことはよく知られている。多くのファンの心を捉えた作品は、2011年の今に至るまで新作シリーズが生みだされ続けるほどの大成功を収めた。新シリーズには、新たな設定や世界観が次々と付加され、ガンダムの世界(=宇宙世紀)の物語はどんどん豊かになっていった。
 それはファーストガンダム制作当初には予期しなかったものであるが故に、同時にガンダムという大河ドラマに幾つかの問題を持ち込んだ。作品間の設定の矛盾などである。しかし、最大の問題は、物語のなかでのわずか20年足らずの短期間に、あまりにも多くの戦いが起きていることでないでないだろうか。

 つまり、ガンダムの長編シリーズの物語構造は、どれも大きな部分で共通している。ふたつ以上の軍事的勢力が戦争をして、一定の決着と伴に終わる。しかし、それはつかの間の平和でしかない。新たな勢力が急激に台頭、また戦争が起きる。それが決着する。そして、また新たな勢力が・・・
 『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』で、TMネットワークが主題歌「BEYOND THE TIME(メビウスの宇宙を越えて)」で唄ったように、戦いが終わると直ぐに次の戦いが用意されるガンダムという作品はまるで永遠にループして抜け出せないメビウスの輪の様だ。
 このループは無意識のうちで起こっているわけでない。むしろファンの要望として、その要望を実現するビジネスとして意識的に行われている。それはいまや「ガンダム」というひとつのジャンルで、構造としてメビウスの輪から抜けだせないのだ。
 そして、メビウスの輪的構造は、宇宙世紀を舞台としたガンダムだけの特徴ではない。『機動戦士ガンダムW』、『機動戦士ガンダム SEED』シリーズも同様の構造を持っている。つまり、新シリーズの展開があると、同じような戦いの構造が再び繰り返されるというものだ。

 こうしたメビウスの輪から抜け出す試みが、これまでなかったわけではない。ひとつはガンダムの生みの親である富野由悠季監督の『ターンエーガンダム』だ。富野由悠季監督は、本作で全てのガンダムを肯定すると述べた。ガンダムシリーズ全部を黒歴史という概念で括る。登場人物のディアナは次の様に語る。「これらが黒歴史と言われているのは、人類の最終戦争だったからで、数百年続きました」と。戦いが続くのは必然、あまりにも頻繁に繰り返される戦争も正当化されるというわけだ。
 しかし、こうした富野監督の意気込みの一方で、ビジネスとして回り続けるガンダムは、その後も依然メビウスの輪の中で新たなループを続ける。『ターンエーガンダム』後にも、とても黒歴史のなかに収まりそうもない『機動戦士ガンダムSEED』シリーズや『機動戦士ガンダム00』などが創られる。『ターンエーガンダム』は、無限ループを続けるシリーズに富野監督自身が決着をつける作品だったのかもしれない。

 その後、このメビウスの輪から抜け出す試みに挑戦したのは、水島精二監督の『劇場版 機動戦士ガンダム00 Awakening of the Trailblazer』だ。2009年にファーストシーズンがテレビに登場した際は、いかにもガンダム的な世界が繰り広げた。「近未来」、「人型兵器」、「複雑に絡み合う軍事勢力」、「悩める主人公」・・・。そして第2シーズンは、やはり依然続く紛争だ。
 ところが劇場版で、作品は全く別の様相をみせる。平和が訪れた地球は、軍事的な緊張を抑え込むのに成功する。そして、新たに主人公たちに襲いかかる敵は、なんと太陽圏外から来た異生体である。『ガンダム00』は、地球以外の生命を物理的に登場させた初のガンダムシリーズになった。これまでのガンダムシリーズの枠を完全に打ち破ったのだ。
 水島精二監督は『劇場版 機動戦士ガンダム00』で、ファーストシーズン、セカンドシーズンに続いて、また新たな地球人同士の戦い、3ループ目を描いても良かったはずだ。いや、むしろそれが望まれていたはずだ。しかし、そこに敢えて、太陽圏外からの生体を物語に持ち込んだのは、ガンダムシリーズの持つメビウスの輪的構造の弱点を意識していたのでないだろうか。そして『00』は、メビウスの輪を打ち破ることで傑作と成りえた。

 この『劇場版 機動戦士ガンダム00』とほぼ並行して制作されたもうひとつのガンダムシリーズが『機動戦士ガンダムUC』である。江戸川乱歩賞でデビューした大物作家福井晴敏の小説を原作にした本作は、『劇場版 機動戦士ガンダム00』とは対照的に驚くほど「ガンダム」である。
 これは悪い意味ではない。悩める主人公の成長と細かなメカ設定、複雑に絡まった世界状況、そのなかで繰り広げる戦闘シーン。長年、多くのファンがシリーズに求めて止むことなくなかったガンダム的世界が、余すところなく盛り込まれる。しかも、その全てが驚くべき情熱と共にハイレベルで実現する。そして、圧倒的な映像クオリティー。3月5日にリリースされた「episode 3: ラプラスの亡霊」を観ると、この作品からおよそ欠点など見つけることが出来ない。
 『機動戦士ガンダムUC』の成功は、まずガンダムであろうとしたことにある。つまり、ガンダムが長年受入れられてきた構造を全部受入れること、プログラムピクチャーとして最大限丁寧に作る。その結果として突出した作品となった。
 
 実はガンダムとして成り立たせる要素を丁寧に描き、傑作を生みだした例は、『ガンダムUC』が最初ではない。1982年の『機動戦士ガンダム0083』である。『0083』は、ファーストガンダムとその続編として制作された『機動戦士Zガンダム』の間に位置する。続編であると同時に、後に続くZガンダムとの整合性もつけなければいけない。しかも、物語の結論は見えている。最終的に連邦は勝つのだ。なんとも創作の自由度の低い作品だ。
 にもかかわらず、『0083』は、主人公コウ・ウラキ、その敵役アナベル・ガトーという魅力的なキャラクターを生み出す。『0083』は新たな世界観というよりも、ガンダムの世界観の補完に重点が置かれ、むしろ人間ドラマに力が入れられた。極限まで高められた作画も『ガンダムUC』と共通する。『0083』がシリーズの中でも特に評価が高い作品であることは、世に求められるガンダムが何かを知るには興味深い。

 ただし『ガンダムUC』の面白さが、プログラムピクチャーとしてのガンダムを高度仕上げることだけでないのも見逃してはいけない。『ガンダムUC』は、これまでのシリーズにあまり見られなかった要素が盛り込まれている。それは、「謎解き」である。
 大きな謎を提示して、物語の進行と伴にそれが解き明かされて行く。「謎解き」は物語のオーソドックスな方法のひとつだ。しかし、ガンダムシリーズでは、これまでそうした展開はあまり用いられることがなかった。
 しかし、『ガンダムUC』の作品の中心となっているのは、間違いなく「ラプラスの箱とは何なのか?」という謎解きなのである。この謎に対する興味が、物語全体を牽引する。さらに「オードリー・バーンとは何者か?」、「主人公バナージの出生の秘密」といった幾つもの謎が重なるなど、作品にこれまでのシリーズとは違う趣を与える。『ガンダムUC』は、ガンダム的な特徴を最大限に活かしつつ、新たな挑戦を行い、融合させる。『ガンダムUC』の本当の面白さは実はこちらにある。本作のOVAは全6話を予定している。残りあと3話、いま最も気になるアニメシリーズだ。

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2011.02.26
アニメ・映画 ]
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文;氷川竜介(アニメ評論家)

 シリーズ25周年記念作品として「マクロス全部入り」が大きな課題だった『マクロスF(フロンティア)』。今回の劇場版「恋離飛翼~サヨナラノツバサ~」は、その「完結編」にふさわしい圧巻の仕上がりである。河森正治総監督に、ひときわ大きなピリオドを打たれた気分になる映画だと言える。

 もともとTVシリーズ全25話として2008年に物語はいったん完結を迎えていたが、TVからかなりのシークエンスと映像を流用した前編「虚空歌姫~イツワリノウタヒメ~」に比べ、今回はごく一部のBANK的なカットを除いてほぼ完全な新作となった。その新鮮さが、まず大きな魅力だ。
 キービジュアルに相当するランカ・リーのハジけた魔法少女スタイルを含め、驚きのライブと歌とが用意されていて、もちろん期待どおりのサービスはきちんと入っている。次から次へと光と音が劇場の空気を満たし、新曲に加えて新たな情報と展開が眼前に出現し、ドラマとストーリーに絡んだ芳醇な刺激が脳内へとたたきこまれる。全身を包む波動が気持よく感情を昂ぶらせるという点で、やはりこれは劇場の大きな空間でないと得がたい体験だと言えよう。
 もともと「歌と戦闘のグルーブ感が恋愛の三角関係に絡みついて感動へと昇華する」というのがマクロスシリーズで四半世紀にわたって受け継がれてきた作法だった。この完結編は、その決定版なのである。おそらく感情が上がったり下がったり、急ハンドルを切られてビックリしている間に2時間弱があっと間に過ぎるだろう。テレビを知っている人もマクロス自体をよく知らない人も、この急流のような波乗り感覚は満喫できるはずだ。

 物語的には、銀河の妖精シェリル・ノームがマクロス・ギャラクシーから送りこまれたスパイ疑惑という前編での新設定を絡め、大きな変化が描かれている。メカ戦闘についても、アルトが乗る機体はバルキリーの実験機YF-29と新型が用意され、フォールドクォーツを満載した仕掛けもそなえている。宇宙空間以外にも大地と重力のある大気圏内の戦闘にチャレンジし、マクロスクォーターさえもが新しい驚きのワザを繰り出す。
 こうした「あの手この手」の新しさと楽しさが有機的に結びつき、大きな「うねり」となってクライマックスに到達し、未踏のエンディグへと導いていく。それでは、これまでと完全に違うものになったかと言えば、そうでもないところが『マクロスF』らしく、嬉しい点だった。「フロンティア」は「未開」ではあるが、完全に新しい地点のことではなく、あくまでも「これまで到達できた地点ありきで、もう一歩先へと限界に踏み出した最前線」なのだから。

 映画を観終えた後は、あらためてこれまで体験してきた『マクロスF』のすべてが愛おしく思えてきた。もう一度、TVシリーズの最初から映像や楽曲を追体験したいとさえ感じたのである。つまり、過去を刷新や更新して「なきもの」にした作品ではない。
 その意味において、まさに「フロンティア」な作品であり、正しく「マクロス全部入り」としてのピリオドを打った完結編なのだ。これをスプリングボードとした、次なる飛翔がますます楽しみになるではないか。

『劇場版マクロスF ~サヨナラノツバサ~』
http://www.macrossf.com/movie2/

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2010.10.30
アニメ・映画 ]
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文;斉藤守彦(映画ジャーナリスト)

 東映でも円谷プロでもない。すべては、雨宮慶太というクリエイター個人のモチベーションとイマジネーションから派生した。それが日本特撮映像史上における、「GARO〈牙狼〉」というシリーズの独特のアイデンティティである。壮絶なるTVシリーズ終了から4年半。スペシャル「白夜の魔獣」を挟んでの新作が、なんと劇場映画!!なんと3D!!それも2Dで撮影した映像を、ポスプロ段階で3D化するという、我々が“なんちゃって3D”と呼ぶ、「タイタンの戦い」のような手抜きではなく、ちゃんと3Dで撮影を行うのだという。それだけでも雨宮ファンの血がたぎるではないか。

 驚いたのは、TVシリーズ「GARO〈牙狼〉」のキャラクター・設定を引き継ぐ劇場版であるにもかかわらず、TV版の主役・鋼牙と相棒ザルバ以外は、レギュラー・キャラが登場しないというその内容だ。雨宮監督によれば、これは「1本の映画として、TVシリーズを知らない観客にも楽しんでもらいたい」との理由によるものだという。そしてこの試みは充分に成功している。仮にTVシリーズやパチンコの「GARO〈牙狼〉」を知らない観客が見たとしても、この劇場版「GARO THE MOVIE 3D/RED REQUIEM」 から受ける充実感は変わらないだろう。いや、インパクトという点では、むしろTVシリーズを未見の観客のほうが、より楽しめるかもしれない。
 何と言っても「GARO〈牙狼〉」の真骨頂はアクション。今回も主役の小西遼生は言うに及ばず、ヒロイン・烈花役の松山メアリのダイミックな動き、魔鏡ホラー・カルマの原紗央莉のセクシーさは、見応え充分。また出色だったのが、江口ヒロミ扮する謎の女・シオンの、不気味な存在感だ。「幻星神ジャスティライザー」では清楚な美女を演じた江口だが、実は二重人格的なキャラを巧みに演じる女優であることは、河崎実監督の「ヅラ刑事/頭上最大の決戦」で証明済み。クールで不気味、そして凶暴な役が似合う、いい女優になったものである。

 3D撮影ということでアクションの段取りなどは通常以上に大変だったようだが、特筆すべきは3D映像が、雨宮監督の映像美学に見事に溶け込んでいることだ。つまり「バイオハザードIV/アフターライフ」のように、3D撮影を誇示せんがため、無駄に刀や眼鏡を前方に飛ばして、立体感を強調してみせるという過剰な演出がないのである。冒頭の魔戒文字から黄金騎士ガロを包み込む炎等、本作における3D映像は、すべて雨宮監督の美学を形成するために存在し、すべては雨宮監督の世界観を表現することに貢献している。志のあるクリエイターと、その意を理解し、熟練したスタッフの手腕を持ってすれば、テクノロジーに振り回されることなくイマジネーションが現実化出来ることを、「GARO THE MOVIE 3D/RED REQUIEM」は証明したのだ。横山誠アクション監督をはじめとする、TVシリーズ以来の「GARO」チームの存在が、それらを可能にしたことは言うまでもない。
 なお筆者が試写会で鑑賞した際の3D上映はXpanDであったが、この方式での上映は、画面が暗くなる傾向が強い。本作はナイトシーンも多いことから、リアルDかマスターイメージ方式で3D上映している映画館を選ぶことをお薦めする。各シネコンのオフィシャルサイトに上映方式が明記してあるはず(ワーナー・マイカル・シネマズは、全サイトがリアルD)。実はリアルDとマスターイメージの3D眼鏡には互換性があり、どちらかの眼鏡(またはメガネ・オン・眼鏡用のアタッチメント)を持っているのであれば、どちらの方式でも3D映像を楽しめる(筆者実験済)。

映画『牙狼<GARO> ~RED REQUIEM~』 公式サイト
http://www.garo-3dmovie.jp/

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2010.10.09
アニメ・映画 ]
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文;氷川竜介(アニメ評論家)

 ときめきながら待ち続ける観客たちの前で、四輪マシンの激しいデッドヒートが始まる。限界までスピードを極めようとするレーサーたちの心意気に充ちた走り。さまざまな異星から集結した特徴ある車の動きは、空間を切り裂いて歪ませ、鋭く荒々しい軌跡は視覚を引っかき回して、脳内にある堅い拘束を解放する。重低音の音楽の響きが観客の全身を震わせ、車体の振動や舞い散るリズムと溶けあったとき、思わず笑い泣きしたくなるような共鳴の感動が身を包み、脳内が何か怪しい「汁」で充たされる心地よさを覚える。
 そんなワクワクする快楽と解放感を同時に与えてくれるのが、石井克人原作・脚本、小池健監督の『REDLINE』というアニメ映画である。10万枚という非常識な作画枚数を、使うだけ使いきって、まさに純粋な「アニメーションだけが可能とする刺激と快楽」だけをエキスとして絞りとったような作品だ。
 必ずどこかが黒ベタで塗りつぶされたコントラストの濃い画風。背景も美術ではなく、パキッと彩度の高い作画を主体に描かれている。これに日本のアクション&エフェクト作画を変えた金田伊功流の直系にあたる作画が加わって、一気にテンションが高まる。強調された遠近パース、1コマ単位で激しいアクセントを刻む緩急のタイミング、生き物のように軌道を変えるビームや膨れあがってうねる爆発と煙などなど、全体の大きなパートを占めるレースシーンは、まさに乱痴気無軌道な「お祭り騒ぎ」のパーティーである。

 木村拓哉、蒼井優、浅野忠信と、キャストは話題性豊富。ストーリー展開も実にシンプルでストレートだ。格好いい男が可愛い女のため、四輪レースで勝とうと疾走する。すべてはこれに奉仕するためだけに構築されたデコレーションではある。しかし、バカだ、中身がないというのは、この作品の場合、ぐるっと回って褒め言葉に逆転する。そこまでのバカを高純度で極めたアニメ映画が、過去どれくらいあったというのだろうか?
 たとえばありがちな感想として、「格好いい『チキチキマシン猛レース』だね」と、常套句のように言われる。だが、スピード感を限界まで極めて、まるでその速度を体感したかのように魂で感じられる『チキチキ~』が、どこの世の中にあるというのだろうかと、逆に問いたいくらいだ。常識の尺度からはバカげてあり得ないことにこそ、徹底して生命を賭ける価値がある。その純粋さこそが美しく輝くはずだ。このことは、作中で描かれる内容と響き合ってシンクロしている。小賢しく整ったアニメは他にあるから、別にいいじゃないか……とさえ思えてくる。

 本来、アニメーションとは、現実の不可能性を突破する奇跡を描く芸術であった。その限界を突破するエネルギーの源泉となる驚きは、フィルムのコマとコマの間の見えない世界にこそに潜んでいる。この映画は、何もかもが規格外でバカげている。それ積み重ねることで、そうした「アニメの本質」に迫っている。「これがアニメなんだ」という原点を、動きの快楽で触発しつつ、思い出させてくれるという点で、実に貴重な作品なのである。

『REDLINE』 公式サイト http://red-line.jp/

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2010.09.18
アニメ・映画 ]
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文; 藤津亮太(アニメ評論家)

 劇場版『機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』はまっすぐな映画だ。幕が上がると、この映画自身が語らんとするラストまで一直線に進んでいく。そのストレートな語り口は、全50話からなるTVシリーズとずいぶん対照的だ。
 TVシリーズの『ガンダム00』は、どこか視聴者を宙づりにするような側面があった。 『00』は「人と人はわかりあえる可能性がある、という希望を新人類(イノベイター)への革新というSFの枠組みで語る」という、アーサー・C・クラークの小説に通じるようなたくらみを持った作品だ。だが、そのたくらみはなかなか明らかにならない。現実の写し絵のような政治・軍事の情勢に目配せしたかと思えば、エキセントリックな悪役の活躍を描き、サブキャラクターのメロドラマで物語を牽引する。物語のラストも、「人と人は分かり合える」可能性は示しつつも、軸足はイノベイターが切り開く未来像にはなく、戦乱の時期を経た人類はどのような未来を作っていくのか考え続けなくてはならない、という方向でまとめられていた。視聴者はここで意図的に理想と現実の間に宙づりにされている。むしろこの宙づり感覚こそTVの『00』らしさであり、作品が目指した“リアル”であったと思う。

 劇場版は『00』が孕んでいたSF的なコンセプトを全面展開、非人間型宇宙生命とのファーストコンタクトを題材とした。『00』の骨格が前面に出た結果、TVシリーズで骨格の上に盛りつけられていた「戦争/平和」「憎しみの連鎖」などの宙づりでなくては描き出せない要素は後ろへ下がり、イノベイターがどのような未来を切り開くかが具体的に、ストレートに描き出されることとなった。
 物語の発端は、木星から謎の宇宙生命体ELSが現れたこと。先に地上に落下したELSによって世界各地で異変が起こり、危機を感じた地球連邦は接近するELSの大群に対し、宇宙艦隊による総力戦を企てる。TVラストで人類に対する“外部”として存在する決意を固めたソレスタルビーイングも地球連邦軍の戦いに協力する。そうした状況を経て、刹那は新型ダブルオークアンタを操ってELSとのコミュニケーションを試みる。
 登場するキャラクターの数は多いが、本作は徹頭徹尾、刹那の物語だ。洗脳された少年兵、戦うことでしか平和を求められないガンダムマイスター。いずれにせよTVでは名を問われることのない兵士だった刹那が、イノベイターとして宇宙に奇跡を咲かせる。劇中で、自分が生きている意味があったとつぶやく刹那という青年の、人生の結論がそこで示される。それは『00』の物語を締めくくるのに非常にふさわしいビジュアルであった。
 また特に印象深いのはエンドクレジット後に語られるエピソードだ。そこでは「すべての原点となった過去の風景」「刹那の示した未来を生きる人類の姿」「刹那のドラマの終着点」が描かれる。
 「すべての原点となった過去の風景」と「刹那の示した未来を生きる人類の姿」は、『00』という物語における「問い」と「答え」だ。この「問い」から「答え」に行くまでの200年を超える試行錯誤こそ『00』という物語の本質であった。その長い時を一瞬で跳躍するシーンとシーンの間に、刹那を始めシリーズに登場したさまざまなキャラクターの生が凝縮されていることを思う時、ある種の感慨が生まれる。
 また「刹那のドラマの終着点」に登場するのは、社会的な立場もなにもかもが消え去った一組の男女。キャラクター固有のドラマの締めくくりとしても十分ロマンチックだが、当欄は、200年超の歴史の中に消えていった人々の中にもこのような忘れがたいドラマがあり、その象徴としてただの男女でしかなくなった2人の姿が描かれたと捉えた。

 以上、主にドラマ面から劇場版『00』の特徴を探った。もちろんキャラクターの繊細な表情、膨大な物量と激しいアクションで見せるELSとモビルスーツの戦いなど、劇場版らしい密度の高いビジュアルがこうしたドラマを支えているのはいうまでもない。
 ちなみに「ファーストコンタクト」「人類側の戦争を含めた複雑な事情」「根底に流れる男女の情愛」と本作を構成する要素を取り上げてみると、ジェームズ・キャメロン監督の『アビス』('89)と非常に近い種類の映画であることがわかる。この部分さえわかれば、TVシリーズに依るデティールがわからなくても興味深く見られる映画であると思う。

劇場版『機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』
http://www.gundam00.net/

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2010.07.17
アニメ・映画 ]
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文;氷川竜介(アニメ評論家)

 「身近でありふれた世界や日常生活にこそ驚きが潜んでいる」 高畑勲と宮崎駿はこの考えを『パンダコパンダ』や『アルプスの少女ハイジ』などの実作で明確化し、日本のアニメの方向性に大きな変革をもたらした。スタジオジブリの最新作『借りぐらしのアリエッティ』(原作:メアリー・ノートン/企画・脚本:宮崎駿/監督:米林宏昌)もまた、床下に潜んで暮らす小人と心臓を病んだ少年との交流を通じ、日常を違った角度で切り取って見せる直系の作品である。
 この映画を見終えた観客は、自分の身の回りにあるキッチンや食卓、床下や軒下などが何かワクワクした違ったものに変わって見えてくるはずだ。誇張と省略を多用して現実離れしたファンタジー世界を描くことが得意なアニメが、なぜ現実を別ものに見せる「異化効果」を示すことができるのだろうか。それは映像に入念なコントロールをほどこすことで、複数の《視点》を獲得することが可能だからである。

 通常の人間と身長およそ10センチ程度の小人と、それぞれが所属する「ふたつの世界」の違いは視点の問題だということが、慎重に描かれぬいている。主人公が父親と初めて「借り」(「狩り」に相当する生活必需品の借用)に出かけるとき、観客は彼女と同じ視点で約20倍サイズの民家の中を探検する。この「20倍サイズ」はウルトラマンとミニチュアセットの比率に相当し、食器棚がビルのような激しい高さをもつものとして逆倍率でそびえたつことになる。初めて到達したときのキッチンの広大さの表現は壮絶なもので、CG的な正確重視の空間ではなく、「見た目」を重視したレイアウトによるアニメ的空間による視点の変化が最大の注目ポイントだ。
 小人の主観シーンでは物理法則にも入念な検証がなされている。特に音響は圧巻で、音は空気圧を増し、背景ノイズでさえもが身体に染みてくるようだ。角砂糖ひとつ落ちたときの残響で醸し出される緊張感はただごとではなく、画の描く拡がりと緊密に連携している。水などの液体も強い粘性を帯びて描かれ、人間の動きもスローに見えるなど、物理的なパラメーターが変わったアニメートが「下手な作画」に見えず、意図が正確に伝わるのは技量がすぐれているからだ。

 注意深く観察すれば、大小どちらの視点なのか、その手がかりが発見できるはずだ。ただ、その分だけ本来出逢うべきでなかった2つの世界に属する者が交わり、感情が錯綜していくはずのドラマが、いまひとつ盛り上がりきらなかったようにも思える。物語的にも両者は交流してはいけない「掟」にしばられているが、いったん衝突から融和に転じた2つの世界と2者の感情が、ふたたび引き裂かれてこそドラマになるはずだ。確かに段取り的にはそういう展開になっているはずだが、妙にさめた感じが漂うのが残念だった。さらに人間サイドの行動が押しつけがましく感じられたり、お話の都合で悪者を必要とするような構造があるように思えるのも、視点の意図が際立ちすぎた結果ではないか。
 そうしたことが気になるのも、このフィルムが「世間がジブリアニメに期待するもの」を徹底しているからで、ぜいたくな話かもしれない。緻密なレイアウト、実感のこもったアニメート、美麗きわまりない背景美術など、高密度なアニメ技法を幻惑感あふれる音響ともども体験できる、必見の劇場アニメであることは間違いないことなのだから。

『借りぐらしのアリエッティ』 公式サイト
http://www.karigurashi.jp/

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2010.06.26
アニメ・映画 ]
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文; 藤津亮太(アニメ評論家)

 児童文学の古典、アーサー・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』は、夏休みの子供たちが無人島で10日あまりを過ごす“冒険物語”だ。この「子供たちだけの夏の大冒険」という題材はは非常に魅力的だから、『ツバメ号とアマゾン号』の昔から現在に至るまでさまざまに変奏され続けている(たとえば『スタンド・バイ・ミー』から劇場版『ポケットモンスター』まで)。そして『宇宙ショーへようこそ!』もまた、その系譜に連なる「子供たちによる夏の大冒険」ものの傑作である。
 監督と脚本は『かみちゅ!』の舛成孝二と倉田英之。どちらも本作で劇場デビューだ。
 物語は東伊豆あたりののどかな田舎の風景から始まる。この地域の小学校は、生徒が6年生から2年生までわずか5人。5人は超能力も親譲りの巨大ロボットも持っていない。あるのは、将来の夢、宇宙への好奇心、人を好きになる心ぐらい。つまりごくごく平凡な子供たちというわけだ。
 この5人が、夏休み恒例の合宿のために学校に泊まり込み、怪我をした一匹の犬を助ける。この犬こそ実は、アニマル星域のプラネット・ワンからやってきた宇宙人、ポチ・リックマンだった。ポチは、水先案内人となって子供たちを宇宙へと導いていく。

 本作のティーザーポスターは、山を背景にした5人の子供たち。いかにも“純朴で良心的なアニメ”風の絵柄だが、あれは一種の“撒き餌”。本作の魅力はむしろ、ポスターで描かれた日常的風景の重力圏を鮮やかに振り切り、ぐいぐいと誰も見たことのない異星の風景へと突入していく部分にある。
 ポチに導かれ、月の裏側の宇宙ステーションへ。そして思わぬトラブルの結果、さらにそこからプラネット・ワンへ。スタッフは旅の途中で子供たちが出会う、奇妙な(でも優しい)宇宙人と見慣れないアイテムに満ちた世界を丁寧に描いていく。okamaほかのプロダクションデザイナーたちが描き出した世界は、「緻密に構築された」というよりは「おもちゃ箱をひっくり返したような」と言ったほうがふさわしく、見ているだけで楽しい。月の裏の異星人たちのにぎわいや、銀河を行く宇宙列車の奇想、そしてタイトルにもなっている劇中番組「宇宙ショー」の華やぎを堪能してほしい。
 かくして子供たちは、見知らぬものへの驚きと喜び、巻き込まれてしまった冒険への不安を胸に、子供らしい喜怒哀楽を全身で現しながらにぎやかな宇宙を旅をしていく。ヒーロー然となったり、教訓を悟ったりしないところもいい。
 2時間を超える尺があり、その長さだけがややビジュアルに淫した結果かな、とも思わないでもない。が、それは些細な点だ。2時間ちょっとの宇宙旅行。子供たちと一緒に「小さな大冒険」を堪能すればそれでいい。
 迷っている人がいるならば、すぐさま劇場へ足を運ぶべきだ。

『宇宙ショーへようこそ』  http://www.uchushow.net/

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2010.05.29
アニメ・映画 ]
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文; 藤津亮太(アニメ評論家)

 吉永裕ノ介の同名原作のアニメ化。今回公開された第一章「覚醒ノ時」は、全6部作の第一部になる。
 2007年から2009年にかけて公開された『空の境界』のヒットに代表されるように、単館系の劇場でアニメ映画が上映されるケースが増えてきた。その背景にはTVアニメにおける「深夜枠で放送→DVD販売で回収」というビジネスモデルがうまく機能しなくなってきたという事情がある。
 こうした状況を受けてメーカーは、ハイクオリティのものをちゃんとした値段でリリースするという方向を探りつつある。本作もそうした状況の中で生まれた挑戦の一つであろう。そして第一章「覚醒ノ刻」は期待を裏切らない開幕をしたといえる。

 物語の舞台は、化石燃料の存在しないクルゾン大陸。人はもとから備わった“魔力”によって石英に命令を与え、それによりあらゆる機器をコントロールしていた。
 そんな世界にあって主人公ライガットは、魔力をまったく持たない特異体質の持ち主。そのライガットがクリシュナ国王ホズルに召還されるところから物語は始まる。
 ライガットとホズル、そしてその妻のシギュンは士官学校時代からの友人だった。ホズルより、隣国の軍事大国アテネス連邦がクリシュナの領土侵犯を犯したことを知らされるラガット。そして、領土侵犯を行った前線指揮官は3人と友人だったゼスだという。
 魔力を持たず兵器を扱えない、戦闘とは無関係に思われたライガットだが、発掘された古代のアンダー・ゴゥレム「デルフィング」と出会ったことで、友の待つ戦乱の中へと踏み込んでいくことになる。
 本作の見所――というか企画の肝――の一つは、当然ゴゥレムと呼ばれるロボットの戦闘だ。本作では、その機体の性能差をちゃんと目で見える描写として表現しようとし、それに成功している。「速い」というセリフがあれば、その言葉が不要なほどその機体は速いし、「高い」といえばほかの機体と明らかに跳躍力が違う。
 こうした細部の描写を積み重ねて機体性能の差を描いくのはマンガよりもアニメのほうが伝わりやすいし、TVよりは映画のほうが念入りに描写できる。企画の器と内容がしっかり噛み合ってこその映像になっていた。見応えはあるが、今回の戦闘はまだ序盤。おそらく今後はさらに見応えのある戦闘シーンが登場するだろう。

 序盤という点でいうなら、戦闘以上にドラマこそ、原作の1巻を消化してまだ始まったばかり。現在も連載中の原作だけに、全6部で戦乱と4人の友情の物語にどう決着を付けるか。メカ描写にまけないドラマのうねりが生まれることを期待したい。
 また、本作の興行成績(とDVDセールス)が、今後こうした企画が後に続くかどうかの試金石にもなるだろう。熱狂的なファンの存在した『空の境界』と、根強いファンのいるロボット漫画の『ブレイクブレイド』。その「差」がどういうかたちで興行に現れるかについてもまた注目したい。

『劇場版 ブレイク ブレイド 第一章「覚醒ノ刻」』 公式サイト
http://breakblade.jp/

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2010.05.05
アニメ・映画 ]
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『9<ナイン> ~9番目の奇妙な人形~』 
   シェーン・アッカー監督インタビュー (前編)

取材・構成:氷川竜介(アニメ評論家)

●驚きのビジュアル、斬新な世界観の『9』

 公式サイトでは「目覚めると、世界は終わっていた」というキャッチコピーと、振り向いた異形の生命体をとらえたキービジュアルがまず目を引く。丸い頭部に望遠鏡のようなレンズの目玉。麻袋のような身体には縫い目がある。より目立つのは、荒涼と広がる大地に、うっすらと見える荒れ果てた文明の残滓。そして迫ろうとしている機械化された怪物である。
 この構成だけで充分に興味を喚起するユニークな作品『9<ナイン> ~9番目の奇妙な人形~』は、不思議な世界観それ自体と人間ではないキャラクターが主役のCGアニメーション映画である。物語は人類が滅亡し、背中に「9」とナンバリングされた小さな主人公が目覚めるところからスタートする。周囲にあるのは、破壊されつくした文明の残骸ばかり。世界はなぜこのような状態となったのか。そして、誰が「9」に生命を吹き込んだのか。やがて「9」と仲間たちとの遭遇を通じ、驚くべき絶望と希望が同時に浮かび上がり始める。そして「9」の果たすべき使命もまた……。
 比較するべき作品もなかなか見あたらない、このユニークな作品は、人間の中にある不思議な感情の触媒となり、勇気や感動を観客の心に与えてくれる。明らかにアニメーションだけが描けるダークな寓話なのである。
 本作をつくりあげたショーン・アッカー監督は39歳。2004年、UCLAの卒業制作として作りあげた11分間の短編『9』がアカデミー賞短編アニメーション部門にノミネートされ、世界中の映画賞を受賞した。さらにティム・バートン監督の目に止まり、長編化のプロジェクトが立ち上がる。短編バージョンのエッセンスと世界観、そして感興をそのままに、エンターテインメント性を強化して大事な生命のメッセージを伝えてくれる。アニメーションを語る上で、まさに必見の作品と言えよう。
 公開にあわせて来日したアッカー監督へのインタビューをメインに、本作のアニメーションとしての魅力に迫ってみたい。

●死んだ世界の中に生命の希望を描く

 本作には人形の縫い目、あるいは破壊された文明のヒビ、サビ、擦り傷などなど人為的に汚れた質感がビジュアルとして、まず観る者を圧倒する。明らかに一度死んだ世界である。そこに動く者たちは、滅亡の中に希望を見るシンボルだ。だが、主人公にとって決して善良なものばかりではない。敵対する機械化されたモンスター。そして巡り合えた仲間たちも、決して一枚岩ではないのだ。
 こうしたある種のエポックに近い世界観は、物語と一体となったアート的な考え方が生み出したものだ。アッカー監督がそのために重視したものとは何だったのだろうか。

「私たちが苦心したのは、3Dモデルで作られた描かれる登場人物たちが、いかにその世界においてリアルに見えるように描くかという点です。観客が彼らがそこで現実的に生きているかのように信じてほしいと、祈るようにして制作していました。技術的に目指したものは、いわば2Dと3Dの融合のようなものです。3Dのキャラクターのいる世界は、ほとんどマットペインティングの技法で描かれた2Dなのです」

 油絵のようなタッチで描かれた世界。それは手描きの質感にこだわった結果だったのだ。その息づかいは、世界全体がまだ生きているかのようにも見せていく。

「私たちはいつも有機的な視点にこだわっていました。そしてすべてのシーンで3Dのセットを組むよりも、効果的なシーンでは平面に絵を描くことがベターだと考えました。手で描くだけではなく、ずいぶん写真も撮りました。実物の方が、デジタルデータとして用意されたテクスチャよりも良い効果をもたらすのです。コンピュータを多用しないというのは、私たちの芸術的こだわりですね」

 世界が滅亡した結果の表現として、多くのアイテムには汚しが入り、多くのものにはスクラッチのような傷がつけられて、強い印象を残す。それもまた、監督の芸術的なこだわりの一環だったのだろうか。

「それは人やキャラクターの手が触れたことを表現したかったからです。人間が作ったものの末路を置くことを通じて、現実世界の地球の歴史を示そうという意図もありました。人類がいかに繁栄し、動物のトップに君臨したとしても、いったんその地位が崩れ去って滅びた後は、建造物も倒壊して自然にふたたび帰ろうとするでしょう。だから、あの廃墟も人間の作りだした光景と言えます。“死”の中にあえて“生”を表現することで、自然を違った方法で表現したわけです」

 そして人形のキャラクターたちは、彼らを取り巻く環境を自然だと理解しているかのように行動する。その行動が見せつけるバイタリティは、この映画の大きなポイントだ。

「廃墟のような世界で、灰の中から立ち上がるような力強い気持ちを表現するためには、彼らがこの世界にいろんなもので縛りつけられていることも見せる必要がありました。だから高さを描き、重力や炎などの表現にもこだわっています。自分で努力を重ねてそうした束縛を振りきって何かをなした後にこそ、次の進化への段階が期待できるはずだと思うからです」

●滅亡した世界と小さな人形たち

 世界を滅亡に導くもの。滅亡後に現れたもの。それは機械化された生物とでもいうべきモンスターたちである。中にはSFの元祖H・G・ウエルズの『宇宙戦争』のウォーマシンや、第一次世界大戦で用いられた毒ガス兵器のイメージが投影されたものもある。そして人形に生命を吹き込む装置のような、ややアンティークな世界観は、現実の歴史とは少し違った様相を示している。

「私は一種のパラレル・ワールドとして描いています。もし過去の世界大戦中に私たちが手にいれなかったようなブラックボックスが発明され、別の産業革命が起きたとしたら……という世界観です。この世界では人びとは機械への過度の信頼をおき、機械の時代を迎えています。結局のところ、機械が重要視され過ぎて人間性の視点を失った結果、滅亡してしまった世界というわけです。機械のモンスターたちのデザインコンセプトとしてはスチーム・パンクの類で、産業革命の蒸気機関を意識しています。何ががどのように動くのか、カムやシャフトやワイヤーなどのメカニズムが露出していて、見た目は決して美しくはないけど機能的。そこが面白いところですね」

 「9」たち人形キャラクターたちは実にユニークだ。そのシンプルなデザインに対し、人間的な所作は実に複雑でユーモラスで、次第に生きた人間に見えてくる。そのデザインにこめられたものとは?

「目の基本的なコンセプトは望遠鏡で、フィルムで記録するカメラのようでもあるし、細かいものを見つめる窓のような役割を持たせています。顔の中でも目を格別に大きくデザインしたのは、私たち人間を誇張して表現するためです。敵対する大きな機械は重くて冷たい動物として表現していますから、そのモンスターとのコントラストを引きたてる意味もあります」

 麻袋のような独特の手触りを感じさせるキャラクターの質感は、映画を見終えても心に残る。身近な品物で構成されたパーツは、どんなきっかけに生まれたものだろうか?

「今から10年ぐらい前、ストーリーボードを描くうちにインスピレーションが訪れました。それはダークな世界で古く壊れた人形が生命を持つというアイデアでした。私は“無垢と幼児性”を対比させたテーマが大好きだったので、それを思いついたダークなシチュエーションに持ち込みたいと思いました。たとえひどく暗い世界でも、人形が戦って生き残ろうとしていく。その成功に向けた努力や行動に感情移入してもらえるよう、あのように麻の手触りを感じさせるキャラクターを設定してみたわけです。私はパペット(人形)アニメーション、特にチェコの作品が大好きなんです。日常生活で目の前にある品物が生命を得て動き出すこと自体に驚きがあって、とても刺激になりますね」

後編に続く

『9<ナイン> ~9番目の奇妙な人形~』
公式サイト 9.gaga.ne.jp
5月8日(土)より新宿ピカデリー他全国ロードショー
©2009 FOCUS FEATURES LLC.ALL RIGHTS RESERVED.

原案/監督: シェーン・アッカー(アカデミー賞®短編アニメーション賞ノミネート)
脚本: パメラ・ペトラー『ティム・バートンのコープスブライド』
製作: ジム・レムリー『ウォンテッド』、ティム・バートン『チャーリーとチョコレート工場』、ティムール・ベクマンベトフ『ウォンテッド』
キャスト(声): イライジャ・ウッド、ジョン・C・ライリー、ジェニファー・コネリー、クリストファー・プラマー、クリスピン・グローヴァー、マーティン・ランドー、フレッド・ターターショー

提供/配給:ギャガ powered by ヒューマックスシネマ
原題:9/アメリカ映画/2009年/カラー/ヴィスタ/80分/ドルビーデジタル

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『9<ナイン> ~9番目の奇妙な人形~』 
   シェーン・アッカー監督インタビュー (後編)

取材・構成:氷川竜介(アニメ評論家)

●ダークな世界観と日本製アニメの関係

 作中、さまざまに工夫をこらした表現についても、鑑賞前に少し掘り下げておきたい。まず、ポスターも含めて「緑色の光」が非常に特徴的に使われている。

「この物語は人形と機械との対決を描いたものです。緑色は人形に込められた“人間の魂”を表現していて、同時に不気味さ、恐ろしさなど緊張感を高める役割ももたせています。緑色は機械側の目の赤色とのコントラストも意識しています。“魂の希望が入った人形”と“死をもたらす悪の機械”との対決。そういうイメージからわいてきた配色のアイデアですね」

 それにしても、アメリカの他のCGアニメーションとは世界観も物語も、かなりテイストが違っている。どれくらい作風の違いを意識しての制作だったのだろうか。

「アメリカではアニメーション映画はカートゥーンと呼ばれ、子ども向け、家族向けと思われています。子どもにとって安全な作品ばかりですから、それに比べて私の作品はダークなセンスをもっていて、セリフもドラマ的なので、非常にリスクが高いと思います。ティム・バートン、ジム・レムリー、ティムール・べクマンベトフといった方々が私を信頼し、このプロジェクトを応援してくれたことで、なんとか実現することができました。特にティム・バートン監督の作品はとても素晴らしいし、私の感性ともとてもよく似ていると思いますね」

 アメリカ市場に対し、日本ではファミリー向けとは異なる作風のアニメーション映画も多い。むしろアッカー監督の作品には、それに近しい部分も強く感じる。

「私はずいぶんと日本のアニメに影響を受けました。アメリカの作品よりも影響は大きいですね。好きなのは、まず宮崎駿監督の作品。『ルパン三世 カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』はとても好きで、同時にものすごく勉強になりました。『AKIRA』や『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』にも、とても大きな刺激を受けています。どのフィルムも非常に刺激的な物語ですし、美しい映像技法の数々を使っていて、その美しさがまた物語のダークな世界観に説得力を与えていると思います」

 やはり『9』に感じる親しみは、日本のアニメにも関連があった。『9』で気になった部分は、「生命のない人形を人間に見たてる」「限定された条件を巧みに表現に応用する」「ダークな世界観」などで、それは日本のアニメ作品とも考え方が似ている。

「私もいろんな作品から刺激を受け、物語の語り手となり、キャラクターをデザインしたので、日本の観客の方々も、私の『9』から何かを見つけていただけたらと思います。もちろんまず楽しんでほしいですが、驚くほど多くの芸術的な知識や技術を盛り込んでいるので、何度かご覧いただき、そうしたものを発見することも楽しいと思います。そしてアメリカのアニメーションのポテンシャルを、日本の作品のようにダークで複雑で、魅力的なものに引き上げられたらと願っています」

●ユニークな人形たちと主人公「9」

 登場する9つの人形たちは、体格も性格もバリエーション豊かで、それぞれ非常に個性的である。その描き分けには、どのような意図があったのだろうか。

「私たちが映画に見出したいものとは、“登場人物がどこから来たのか”そして“何をするか”です。登場する9つの人形には、それぞれ異なる人間の個性を象徴させてあります。だから、みんなどこか少し奇妙なところがあったり、それぞれ強さや弱さを備えているわけです。でも、そうした異なる個性を重ね合わせ、協力して再結合させることで、試練にも等しい厳しい運命も克服できるに違いない。そんなコンセプトを、キャラクターの成り立ちにこめてあります」

 その中でも主人公の「9」は、記憶をもたずに誕生するところなど、格別のポジションにおかれている。彼の役割とは、何だったのか。

「まず主人公は作中の世界について、まったく何も知らないキャラクターにしたいと思いました。それは観客と同じ視点ということなんです。彼が“この世界はこうなっているのか”と分かると同時に、観客も理解するわけです。困難にぶつかったときにも“9”は私たちと同じように考え、自分が正しいと思うやりかたで決断して行動する。だから感情移入できるんです。彼自身の力と強さが、彼を自然とリーダーにさせてしまう。たとえ結果が辛くて過程が困難に見えても、純粋さや理想で立ち向かうことで勝てるわけです」

 となると「9」は一種のヒーローととらえることも可能だが、それともまた少し異なっているようだ。

「“9”は決して典型的なヒーローとは呼べないと思います。むしろ女性の“7”の方が強くて能力もあるし闘争心も備えていて、よほどヒーロー然としているでしょう。でも、彼女はどこか一面的なんです。独立しすぎているし、目的を優先して他人を突き放すようなところがある。一方の“9”はどんなことでも受け入れ、すべてを自分のもとに集めるタイプです。そして対立する“7”も受け入れる。“9”は考えるよりも、想ったり願ったりすることを優先します。だからこそ、困難な運命も乗り越えられるんです。私たちは型にはまったヒーロー像を少し変えてみたいと思って、そんな風に描いてみました」

 そこまで言われれば、そんなユニークな主人公のナンバリング、そしてメインタイトルを『9』とした理由も気になるではないか。

「いろんな文化や哲学で“9”はいつも力強く、不思議な数字として扱われてきたからです。“9って何だろう?”“9は何をするんだろう?”と観客が思いながら、私の謎めいた世界に入ってきてほしい。そんな入り口になることを願って選んだ数字ですね」

 人形の顔は非常にシンプル。だが、映画を見ているうちに、細かい感情のニュアンスまで次第にくみ取れるようになっていく。これだけ深く感情移入させる秘訣とは何なのだろうか。

「それは主にアニメーターの努力の成果ですね。デザインのシンプルさは動かすときの制約にもなりますが、逆に制約があるからこそアーティストたちは素晴らしい解決方法を見いだそうとして、知恵を絞るわけです。レンズの絞り程度しか感情を表すためのデザインは備えていませんが、パントマイムのように全身を演技に使うことで、とてもユニークで際立つキャラクター表現を、試行錯誤の末に見つけることができました。
 ユニークな身体の形やデザインは奇妙なパフォーマンスを要求するため、俳優にも声を吹き込んだ直後、すぐに肉体的な動きを実際に演じてもらっています。アニメーターも同席して、その動きを演じています。
 これはキャラクターの動きを考え、生命を吹き込むうえでもっとも速く、そして実りの多いプロセスとなりました。私やプロデューサーが演技の解釈についてそこで協議したことで、ストーリーやキャラクターの行動面をさらに深く掘り下げていくきっかけが得られたのです」

●音響演出、日本の観客へのメッセージ

 本作は音楽や効果音も実に慎重に設計され、強い印象を残している。重さや軽さ、大きさや小ささを感じさせる秘密は、音響にあるように思える。

「サウンドはビジュアルよりも映画の世界により強く引き込む効果があるため、たとえ死に絶えかけた世界であっても、とても重要なものになります。別の国の観客にも言葉の違いを越えてキャラクターを定義づけ、的確に伝えることもできるわけです。ですから、サウンドデザインには特に注意を払いました。
 音で暴力的なイメージを伝えたり、死の世界をより身近に感じさせることもできますし、世界の状態や自然の様子、あるいは生活感を描き出し、感情を表現することもできます。機械がどのように動いているかについても、画的なクオリティ以上にサウンドがうまく表現したと思います。汚れたテクスチャへのこだわりと同じで、観客が映画の中に触っているように感じさせる役目もはたします。すべては、私の作品の宇宙へ観客を引きずりこむという、同じ目標によるものなのです」

 『9』のもつ独特の世界観と、そこへの没入度の秘密が少し分かったような気がする。最後に締めくくりとして、アッカー監督から日本のアニメファンに対するメッセージをうかがった。

「少しでも多くの方に、観ていただきたいですね。キャラクターに深く感情移入できる、驚くべきユニークなアニメーション映画がアメリカにもあるということを、知っていただきたいです。様々な階層でいろんな表現を積み重ねた映画ですが、特に精神的なレベルにおける“この機械社会で人はどう生きるべきか”について、多くのことを語っています。テクノロジーとの密接な関わりを深めていく時代になっていますが、その中で人はどのようにして人間性を維持するか、そんなことを考えるきっかけになればと。おそらく日本の観客の皆さんは、この作品の内容について良く分かってくださると思います。私の感性は、きっと日本のみなさんに近いはずですから」

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『9<ナイン> ~9番目の奇妙な人形~』
公式サイト 9.gaga.ne.jp
5月8日(土)より新宿ピカデリー他全国ロードショー
©2009 FOCUS FEATURES LLC.ALL RIGHTS RESERVED.

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2010.05.01
アニメ・映画 ]
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文:荒川直人(映画ライター)

 『THEビッグオー』で知られる片山一良監督初の劇場アニメ『いばらの王 -King of Thorn-』は、実に挑戦的な映画である。それは一筋縄ではいかない複雑な魅力を兼ね備えつつも、観客に決して優しい作品ではない。人によっては難解すぎると失望させてしまう可能性も否めないが、一方で、近年久しく味わえなかったSF映画の醍醐味に満ちて、スリリングな面白さを提供してくれる。二度三度と繰り返し観ることで新たな発見がある――という段階で、ほとんどの観客の期待とかけ離れてしてしまうのかもしれないが、本作はその映画的な奥行きが素晴らしい。

 2012年、感染後60日以内で石化するという致死率100%の奇病“メドゥーサ”の蔓延により、人類は絶滅の危機に瀕していた。治療法が見つからない最悪の状況下で、ある企業が未来に種の存続を託し、実用化したばかりのコールドスリープ施設を導入した大胆なプロジェクトを発表する。しかし、抽選で決定される資格者は全世界でわずか160名だけだった。
 やがて、スコットランドの古城に造られた施設にやってくる選ばれし者たち。カスミとシズクも共に“メドゥーサ”に感染した双子の姉妹だった。が、資格を与えられたのは妹のカスミただ一人。姉のシズクは妹に生き延びて欲しい一心で、ここまで付き添ってきた。けれども、つらい別れを乗り越え、再びカスミが冷凍睡眠から目覚めた時、彼女を待ち受けていたのは、いばらに覆われた変わり果てた施設と異形の怪物たちの群れであった。
 なぜこのような惨劇が起きたのか。施設の外は、そして世界はどうなっているのか。外界との通信も途絶え、謎が謎を呼ぶ中、怪物の執拗な襲撃で息詰まる死闘が続く。だが、生き残ったカスミたちがこの古城を脱出したとしても、治療法がなければ石化する運命からは逃れられない――。

 ゾンビこそ登場しないものの、本編の雰囲気はカプコンの人気ゲーム『バイオハザード』を連想させるが、漫画家・岩原裕二はヴィンチェンゾ・ナタリ監督のサスペンス映画『CUBE』(98)から原作のイメージを膨らませたのだという。立方体で構成されたトラップの迷宮から6人の男女の脱出劇を描いた一幕物は、確かに孤立する古城を舞台にした『いばらの王』に通じるところがある。
 そこで繰り広げられる激しいアクションは原作の持ち味でもあるが、キャラクターデザインの松原秀典、総作画監督の恩田尚之をはじめとする実力派スタッフが結集し、迫力あるバトルシーンを見事に具現化している。そして、大半の観客は気づかないはずだが、本作では従来のアニメ技法を基盤としながら相当数の3DCGが混在しており、普通に振舞っているキャラクターが実は3Dモデルで作られているというカットも意外と多い。
 シームレスに表現されたこのハイブリット映像は、日本のアニメならではの独自のスタイルで、これは『スチームボーイ』(04)、『FREEDOM』(06-08)、『新SOS大東京探検隊』(07)などの革新的なデジタルアニメに挑戦してきたサンライズ荻窪スタジオの一つの到達点だ。培ってきたノウハウを継承し、新たな表現へと昇華させるその姿勢には特筆すべきものがある。

 しかし、最初に本作を「挑戦的な映画」と書いたのは、それが理由ではない。
 ハリウッド大作にも引けを取らない堂々たるSF冒険活劇でありながら、事件の真相を明らかにする過程で衝撃の急展開に突入する。振り返れば、序盤から伏線が散りばめられているとはいえ、ジェームズ・キャメロンやスティーブン・スピルバーグの映画を楽しんでいたつもりが、いつの間にかデイビッド・リンチの世界に足を踏み入れてしまう摩訶不思議。これはいったいどうしたことか。

 現在、24時間という有限の枠組みに対して大量のコンテンツが降り注ぎ、個人が受け取る娯楽の総量は飽和している。だが、それでもより多く楽しみたいという人々の欲求から、一つ一つのコンテンツに向き合う時間は明らかに減少している。録画して溜まったTV番組を見る行為を「消化」と称するのは象徴的で、マルチモニターで「ながら視聴」することなど、もはや誰にとっても特別なことではない。
 そんなライフスタイルの変化によって短時間で作品を処理しがちな観客に対し、「受け取ったからにはそう簡単に消化させないぞ!」という執念にも似た監督の想いを本作には感じる。つまり、『いばらの王』の構造的な違和感は、観客の心に何かを残したいというトゲなのではないか。
 もちろん忙しい現代人にとって、映画館に何度も足を運ぶことが大変高いハードルなのは重々承知している。SF映画の金字塔『2001年宇宙の旅』(68)のように解けない謎を反芻する楽しみ方を推奨しても、その面白さは受け入れにくいだろう。それでも、一度目は何が起きたのか不明瞭な物語が、同じ内容でありながら、二度目には理路整然と映るのだから興味深い。

 観客と真正面から対峙する片山監督の姿勢は、仕掛けられた“メデゥーサ”の謎と重なり、難関をくぐり抜けた者に新しい映画の未来を託そうとしているようにも見える。気軽に触ろうとすると怪我をしてしまいそうなトラップ満載の『いばらの王』だが、そんな危険なトゲがあるからこそ、やはりこの「花」は美しいのだと思う。
 刺激的な力作だ。

『いばらの王 –King of Thorn-』 http://www.kingofthorn.net/

■ 荒川直人
1965年、北海道生まれ。プロデューサー。CD「K-PLEASURE Kenji Kawai Best of Movies」で楽曲解説を執筆後、押井守&川井憲次関連の特殊需要を中心にライターの活動も行っている。
現在、mixiで5年ほど続けた極私的な映画レビューをアメブロにて公開中。Twitterも始めました。

「荒川直人の週末シネマ」 http://ameblo.jp/nippon1939/
Twitter ID:@nao_arakawa

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2010.04.24
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文; 氷川竜介(アニメ評論家)

 荒涼たる砂の大地に、百戦錬磨の不敵な面構え。腕に自慢のガンマン同士が対峙し、生命をかけた火線が交わる。酒瓶が割れ、木造のカベは吹き飛び、穴だらけになる。そんな西部劇の魅力をSF仕立てに置き換えた数々の作品の中でも、この『劇場版TRIGUN(トライガン)』は異彩を放っている。それは深紅のコートに身を包んだ主人公のヴァッシュ・ザ・スタンピード、彼の示す不思議な存在感によるものだ。
 街がまるごと壊滅するなど、あり得ない大災厄を招くため「人間台風(ヒューマノイド・タイフーン)」と異名をとるヴァッシュ。どこの街にもツンツンと尖った特徴的な金髪が目だつ人相書きが掲示され、賞金は600億$$(ダブドル)にものぼる。その大金を目当てに惑星中から荒くれ者の賞金稼ぎが集まり、ヴァッシュを追う。
 しかし、ヴァッシュ自身は噂と違い、強いのか弱いのか分からない男だ。ひょうひょうとした態度にユーモラスな軽口をきくだけ。むしろ賞金稼ぎや周囲の人間たちの思惑の交錯で騒ぎと被害が大きくなっていく。今回の映画でも、まさに「バッドランド ランブル」という副題のとおり、開巻すぐに「すれ違い」が拡大していく面白さが提示されている。ヴァッシュ自身は元凶ではなく、「台風の目」という構造が非常に面白い。ストーリーは原作者・内藤泰弘と西村聡監督の原案を小林靖子が脚本にまとめたもの。伝説の大強盗ガスバックという強烈なキャラを中心に、原作を知らない観客もトライガン世界に存分に味わえる映画に仕上がっている。

 ポイントとなるキーワードは、「世の中、つまるところは奪い合い!」というガスウッドの言葉の示すとおり、「因果」だと思った。すべてのことには原因があり、結果がある。そこには果てしのない連鎖があり、時間を超えて続いていく。英語で収支のことを「バランス」と呼ぶように、実はその奪い合いの因果が均衡のもとになっている。奪い、ため込むだけではダメなのだ。今回の物語でも、ヴァッシュとガスバックの20年前のある関わりが原因となって、ある重大な結果が生まれた、それはラスト近くまで明かされない。ヴァッシュの「ラブ&ピース」に基づく不殺のポリシー、そして手にした大金を次の強盗計画へすべてつぎ込むガスバックの美学が、せめぎ合うようにしながら、ひとつの「バランス」にたどりつく構造に快感を覚えた。
 しかし、そんな辛気くさいことはあまり気にしなくていい。今回の劇場アニメ化は1998年のTVアニメ版がヒットしたアメリカ市場からの熱いリクエストによるもの。パーティームービー的なお祭り騒ぎ感覚が満載で、次から次へと事件の起きる快感にこそ、まず身をひたすべきだろう。関西弁を使う巡回牧師ウルフウッド、保険調査員のメリルとミリィの凸凹コンビなど、楽しい面々がヴァッシュに絡む中、銃撃や破壊の緊張やカタルシスが存分に楽しめる。そして手描きの渋くうねるような描線で、しっかりと表現された日本でしか作れないアニメであることが、何より嬉しく、誇らしいと感じた。
 ヴァッシュが示す「本当の強さ」が気になったら、原作を読んでみるのも一興だろう。原作漫画は、そんなヴァッシュという男の不思議な出自と、そこに秘められた移民惑星にまつわる巨大なスケール感のサーガを見せつけるSF大作なのだから……。そうした楽しみ方もまた、果てしない因果の連鎖を生むものに違いない。

劇場版 『TRIGUN Badlands Rumble』公式サイト 
http://www.trigun-movie.com/

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2010.03.13
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文; 氷川竜介(アニメ評論家)

 テレビシリーズ11話、劇場版1本と長尺を積み重ねてきた『東のエデン』も、ひとまずこの劇場版の後編で完結となった。「日本を救うために百億円を与えられたらどう使うか?」というセレソンゲームは、滝沢朗と森美咲の帰国により、一挙に最終段階へと向かう。「滝沢は王様になれるのか」という未来と「滝沢とは何者だったのか」という過去が対置される中で、さまざまな人びとがうごめくことで、ゲームの勝敗の行方と黒幕があぶり出されていく。
 劇場用映画でありながらアクション等の娯楽要素はかなり控えめで、ストーリー的にも終結へと向けて広げた大風呂敷をたたもうとする性急さは否めない。「お金を使うこと」と「お金をもらうこと」の対比から浮かぶセレソンゲームの真意は痛快だが、主張のいくつかはシュガードリーム的で、手厳しい批判にさらされる可能性が高いとも思った。しかし、そうしたアンバランスさを越えた、ひたむきさが伝わってきたことも事実である。きれいに整合させ過ぎて小さくなるより、収まりきれないほど大きな想いがあるということが確認できただけでも、この作品につき合ってきて良かったと感じた。

 実際に「今回でお別れか、寂しいな」という想いが去来したのは、自分でも意外だった。それは、登場人物それぞれの活躍を通じてにじみ出る魅力に触発されたものだ。実にユニークなバックグラウンドをもち、個性豊かな人物像は、生身をもたないアニメキャラクターなら当然ではある。だが、終局にあたる後編では、そうしたテクニック論を越えた「いのち」がキャラに宿ったように感じられる瞬間が何カ所かで訪れた。その頂点にあたるのが、咲がクライマックスで滝沢に対してとる行動である。そこに確実に存在する感情の高揚を心の共鳴として感じとれるかどうかで、本作の評価は大きく分かれるはずだ。
 そう、キーになる言葉は「変化」なのだ。映画を観ている最中、何でもないシーンでふと「みんな変わったなあ」という想いが脳裏をよぎり、少しだけ目尻が潤んだ。「同じようなシチュエーションにおかれたら、自分もあんな行動がとれるのか」という類の想い。こうした感情移入は幾多の「謎解き」よりも主張よりも、観客にとって重要なことだと思う。映画は論文ではないのだから……。

 さて、エンディングで主題歌が流れても、絶対に席を立ってはいけない。エピローグがついているからだ。そこでさらに広げた風呂敷がひとつ畳まれるが、最後のそのまた最後で筆者は「何だって?」と耳を疑い、激しく動揺したのであった。直後に神山監督の取材があったので、速攻で真意を尋ねたが、当然のように笑みしか戻ってこない。予想どおりの反応だ。だが、神山監督の映画に意味のない言葉や映像はあろうはずがない。
 剣術も達人となれば、相手に斬られたことを気づかせないないほどの技を使うという。そうだ、またも神山監督にしてやられてしまったのだ。このように、映画が終わっても現実世界は決して終わらない。観客の側に投げ返された物語は、永遠に続いていく。「お客さんなら、百億円をどう使いますか?」という問いかけとともに。そして、意味を検証し直さなければならないヒントも山のように与えられ、目の前に残った。自分ならどうするのか、自分はどう変われるのか。そんな想いを胸に、また第1話からリプレイを楽しむのも悪くないなと、今では思っている。

『東のエデン』 公式サイト http://juiz.jp/

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文;氷川竜介(アニメ評論家)

 アニメ版『時をかける少女』(2006年/細田守監督)で力いっぱい突っ走る主人公を好演した仲里依紗――彼女を主役に同じ原作を実写化するという、ある種のアクロバティックさを感じさせる企画である。
 2010年のこの谷口正晃監督版は、物語設定としては原田知世主演の大林宣彦監督版(1983年)を引き継ぎ、ひたむきでアクティブだけどドジっ子の主人公は、アニメ版を継承している。そして今回の少女は、限られた何日かの時間を繰りかえすのではなく、はるか36年前への片道切符的な時間旅行を体験することになる。そこではやはり淡く切ない出逢いと恋心が描かれることになる……。

 「よりによって1974年へタイム・リープか」というのが、現実世界の1974年では高校生だった筆者がまず思ったことだ。具体的な時制が示されたことが驚きであった。記憶の中では、この時代にはきわめて大きな節目が刻み込まれている。1973年10月の第四次中東戦争を受けて原油価格が高騰し、いわゆる「オイルショック」が起きる。太平洋戦争敗戦から復興して四半世紀余り、日本の高度経済成長も限界をむかえ、公害などの歪みを生んでいた。劇中の1974年2月ごろは、繁栄から暗転した世相が決定的になってたころだ。SF作家・小松左京の書いた「日本沈没」がベストセラーとなり、73年末に公開された同題の特撮映画が大ヒット。同時期にノンフィクションの体裁で刊行された「ノストラダムスの大予言」とあわせ、一挙に「終末ブーム」が加速していた時期でもある。
 それゆえに、この1973~1974年につくられたアニメ・特撮作品にはダークな雰囲気をたたえたものが多い。1974年10月放送スタートのTVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』における滅亡寸前の地球という逆境の設定も、例外ではない。ただし、「SFビジュアルの新時代」という次のムーブメントを生み出そうとする気概が、そこにはっきりと焼きついていた。つまり暗い闇の中に、次の時代の光明が宿り始めるという時期でもあったわけだ。
 こうした時代背景を念頭におくと、主人公・芳山あかりがタイム・リープした先で巡りあう大学生・涼太の趣味が「SF」であることや、「映画の自主制作」を通じて地球滅亡の意味を自分なりにとらえなおそうとしている姿勢に、格別の意図があるように思えてくる。その深読みの発想自体が、現実と響きあうSF的なトライアルではないのかとも……。そう考えてみると、「時を越えることで輝くラブストーリー」という『時かけの真髄』も、今回はフィクションの枠を越えた格別の切なさをたたえているようである。そうしたフィクション世界と現実の越境のためにも、アニメ版の主役が実写として飛び出てくる仕掛けが必要だったのだろうか。

 筒井康隆のSF小説『時をかける少女』を原作に、時代ごとのクリエイターたちが思春期への思い入れたっぷりに映像リメイクを繰り替えしてきた。そのあまりの反復ぶりは、この作品自体に「時をかけるパワー」が宿っていることを暗示してきた。数あるSF作品の中でも本作独特のメタなパワーは、谷口正晃監督版の「具体的な時制を示し、現実世界と時かけ世界を橋渡しする」という仕掛けを得て決定的になり、次なるステージに移行し始めたように感じられる。
 原作初出から43年という積みかさねた「時」がそれを可能にしたと思うにつれ、「時かけ現象」の壮大さに感じ入るばかりである。これを受けた新たな世代の「次の一手」が、さらに楽しみではないか。

『時をかける少女』公式サイト http://tokikake.jp/ 

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2010.03.06
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文;氷川竜介(アニメ評論家)

 『ペイル・コクーン』で映像感覚が高く評価された吉浦康裕監督による初の長編映画である。連作短編『イヴの時間』(6話分)を1本にまとめたオムニバス的構成だが、単なる総集編ではなく、すべてHD画質で再レンダリングされた上で音響ふくめ、すべて劇場の集中できる環境にチューンナップ。さらにあっと驚く新作カットが随所に追加されている。一連の流れができて各話の関連も見えやすくなったため、一度観たはずのエピソードも「あれ、そういうこと?」と新たな興味をそそる部分が発見できる。そんな嬉しい仕掛けが満載の映画だ。
 アンドロイドと人間がともに暮らし、見た目の差がつきにくくなった時代――ロボットの頭部には識別リングの表示が義務づけられている。だが、メインの舞台となる謎の喫茶店「イヴの時間」内では、いっさいの区別をしないことがルールだという。はたして店内の誰がロボットで誰が人間なのか? 識別マークをとったとき、ロボットと人の間には感情の交流が可能なのか?
 吉浦監督は、描き方次第では重く陰々滅々にもなりかねないSF的でシリアスなテーマを、ユーモラスで笑いにあふれた会話劇へと転換。時にあっと言わせ、時にストンと涙の感動へ落とすように、自在に観客の感情をもてなし、気持ちの良い方向へと導く……そんな軽妙洒脱な娯楽志向の作風が、この作品の大きな魅力である。

 インディーズ作品では「映像クオリティ」や「作家性」を研ぎ澄ます方向性をとることが多い。吉浦監督の前作『ペイル・コクーン』もそうだった。しかし今回は「シチュエーション・コメディ」を目ざしたという。人気テレビドラマのように、ひとつ固定した「舞台」を用意し、そこに出入りするキャラクターに会話中心のドラマを紡がせることで、観客を引きこんでいくわけだ。「原作、脚本、絵コンテ、演出、3DCG、撮影、編集、音響監督」と監督自身が名を連ねる目的も、その絶妙な会話の呼吸と、映像のカメラワークや照明を密接にリンクさせることにある。
 前作同様、なめるようにじっくりと移動するカメラワークは、地下に用意された秘密の喫茶店の閉鎖空間を、臨場感たっぷりに、そして魅惑的に見せていく。手描き作画によるキャラクターたち表情豊かに細やかな演技で会話を盛りあげ、次第に人とロボットとの境界が曖昧になっていく。高まりすぎた緊張の中で思わず笑ってしまうような瞬間も多々発生し、そこではアニメーションがなかなか獲得しにくい「ユーモア」と「ライブ感」が生じている。

 設定やテーマの深いところを悩まずに、すっと作品世界へと引きずりこまれるその巧みな演出手腕は、特にアニメに興味のない観客が抱くかもしれないガードを思わず下げさせる。その様子がまさに作中で問われる「人とロボットの区別」をどうするかの問題に直結している。
 つまり「人とアニメキャラの区別」をどう考えるか、改めて意味を問いかけている作品でもあるのだ。暗く集中できる劇場のステージで、入り口は柔らかく広いのに、なかなか奥が深いこの作品を存分に味わってみてはいかがだろうか。

『イヴの時間 劇場版』
http://timeofeve.com/

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2010.01.23
アニメ・映画 ]
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文;氷川竜介(アニメ評論家)

 奇跡のパワーを秘めたアイテムで美少女が変身! ステッキを武器にバトル! 「魔法少女もの」は女玩(女児向け玩具)の販促企画の作品群からスタートし、いつの間にか「大きなお友だち」向けにひとつのジャンルを形成するようになった。本作『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』(原作・脚本:都築真紀/監督:草川啓造)も、そんなジャンル作品がファンに支えられて成長し、ついに劇場版にまで登りつめた映画だ。合計3シリーズが制作されたTVアニメ版「なのは」を表紙にするとアニメ雑誌の部数が確実に伸びるという定説があるほど、堅実で熱い層をつかんでいる。
 そんな人気シリーズを改めて新シナリオ・新作画で映画としてリメイクする試みという点では、ファンムービーの典型とも言える。だが、それを突きつめたところにある種の迫力、高みのようなものが感じられた。

 『なのは』を愛するファンのために、作り手が「良かったところ」を抽出し、新たな見せ場として再構築する。それは当たり前のことだ。そして、一般にクリエイターたちはやや冷静で客観的な立場になって、観客をさらなる高みへとリードしようと試みるはずだ。ところが、この劇場版では映画が進行するにつれ、明らかに作り手の側も『なのは』を溺愛していることが伝わってきて、それに圧倒されてしまうのである。
 「これが、なのはだ!」「これが見たいだろう? そうだ、自分も見たい!」とでも言わんばかりの、輝かしき情熱の発露。それはもはや「愛」としか表現できない。その波動や輝きが映像に転化し、カットごと、シークエンスごと、セリフごとに燃えあがって、スクリーンから放散されて観客の全身を震わせる。『なのは』に強い興味のなかった筆者でさえ、評価検分という職業病を封じられて「これはすごい」と感じたのだから、ファンを満載した映画館ではどんな熱気が生まれるのか、かなり興味がある。
 鑑賞前は「えっ、130分?」と尺の長さにも思わずたじろいだが、実は映画の中身は濃厚だから心配はない。主人公である9歳の少女なのはが初めて魔導端末レイジングハートを手にして魔法少女に変身するきっかけ、最初の戦い、さらにそのミッションを妨害しようとするライバル魔法少女フェイト・テストロッサとの出逢いなどなど、舞台を変え、手を変え品を変えて、バトルを中心にアクセル全開のスピードで物語が進行する。

 劇場版として特筆すべきは「音響」だ。なのは役の田村ゆかり、フェイト役の水樹奈々とダブルヒロインの声の明瞭度が増し、戦闘シーンにおけるギミックの作動音、爆発や着弾などの迫力向上は言うまでもない。一番の注目ポイントは、バトルを支える魔導端末レイジングハートのクールビューティなボイスだ。設定的には小道具の無機質な応答音声なのだが、なのはにネイティブな英語でチュートリアルを指示し、ともに戦って苦難を乗りこえていく、そのパートナーシップのけなげさには、思わず涙なのである。
 劇場版「1st」では人気に火をつけたTVアニメ第1期全13話(2004年)の「ジュエルシード」編をまとめた。この映画の凝縮度は、『なのは』をまだよく知らない観客に魅力のエッセンスを訴求するエントリーフィルムの役割もはたすはずだ。「ビジュアルは知ってるけど、どんな作品?」と知りたい方にはオススメの130分である。

『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』
http://www.nanoha.com/

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文: 柿崎俊道

2010年1月23日公開の劇場版『Fate/stay night UMLIMITED BLADE WORKS』の試写会へ行った。
『Fate/stay night』は熱烈なファン層を獲得している作品だ。
2007年にテレビシリーズが放送され、人気を博した。
とはいえ、原作はテレビシリーズではない。
原作は同名のアダルトゲームである。

原作の『Fate/stay night』はゲームであるがゆえに、
複数の攻略ルート(といっても少ないけども)があり、
どれを選ぶかはプレイヤー次第だ。
映像作品として起用されるエピソードも、そうしたルートのひとつを中心にしている。
たとえば、テレビシリーズでは
主人公・衛宮士郎と美少女セイバーを中心に構成されたストーリーだった。
劇場版ではキービジュアルのとおり、
遠坂凛と美形の弓兵アーチャーを中心に描かれる。

本作はテレビシリーズと対になるように構成された作品だ。
そのため、映画館に足を運ぶお客さんはすでにテレビシリーズを見ているだろう
という制作姿勢からか、世界観の説明は一切ない。
とくに衛宮士郎とセイバーの契約のシーンはとても重要だと思うが、
サッと描かれ、あっさりと次のカットへ移行する。
しかも、戦闘シーンが多い本作では、
登場人物は数々の強敵から無数の傷を負わされる。
だが、それも包帯を巻かれたくらいで、いつの間にか元気に歩いている。
そうした戦いの目的である「聖杯」は、
どんな願いでも叶うという代物らしいが、
登場人物たちはそれを手に入れてどうしようというのか。
最後まで見ても、まったくわからない。
そもそも、ふつうの高校生であろう衛宮士郎が
なぜ魔法が使えて、サーヴァントと呼ばれる使い魔を受け入れているのか。
劇場版だけではよくわからないことが盛りだくさんなのだ。

これは、作品を否定しているのではない。
知っているファンにこそ見てほしい、まずファンを満足させたい、
という制作側の姿勢がはっきりと打ち出されている証拠だと私は理解した。
公開予定の上映館リストを見ても単館が多く、
広く一般向けには考えていないことがよくわかる。

本作はアダルトゲームが原作と前述したが、
劇場版もあたかもゲームのようである。
気の利いたアダルトゲームにはスキップ機能や早送り機能があり、
自分の好きなシーンへすぐに飛べるようになっている。
分岐点が多いゲームではとくにこの機能が重要だ。
全ルートをすべて攻略したいのがプレイヤーの性である。
その際に、一から順に進めていたのでは、面倒くさくてかなわない。
体験済みのシーンはサッとスキップ、もしくは早送りしてしまうのだ。

劇場版『Fate/stay night UMLIMITED BLADE WORKS』も同じだ。
ファンがよく知っているエピソードは軽く流して、
新しいシーン、派手な戦闘シーンに力を注いでいるのがよくわかる。
決められたスケジュールと予算の中でできることは限られている。
ファンが一番見たいであろうシーンを中心に構成する、
というのは間違ってはいない。

ただ、個人的に気になることがある。
アダルトゲームが原作なのに、アダルト要素が少ないことだ。
ファンのみなさんは満足できるのだろうか。
過去を見ても、人気のアダルトゲームが商業アニメになるたびに、
そうした要素が削られる傾向にある。
一般向けにするためには仕方のないことだとは思うが、
本作のように回りまわってマニア層に特化した劇場作品は
原作のアダルト要素を加味してもよかったのではないか。
それとも、Hシーンはゲームで何度もやっているので、
それで満足というわけなのか。
アダルトゲーム、美少女ゲームが好きな人からよく聞くのが、
「Hシーンを見たいわけじゃないんだよ!
 ドラマに感動したんだ!」
という言葉だ。
そこには、どのようなファン心理が働いているのか。
私はアニメ業界で長く仕事をしているが、
いつになっても、そこだけがよくわからずにいる。

劇場版『Fate/stay night UMLIMITED BLADE WORKS』
http://www.fatestaynight.jp/

◆柿崎俊道 (かきざきしゅんどう)
1976年生まれ。著書に『聖地巡礼 アニメ・マンガ12ヵ所巡り』、『Works of ゲド戦記』、『Kirari 痛車コレクション』など。Twitterは「syundow」、mixiは「柿崎俊道」で登録。

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文:  柿崎俊道

同名カードゲームとともに子どもたちに人気の『遊☆戯☆王』が
映画『劇場版 遊☆戯☆王 ~超融合!時空を越えた絆~』として、
2010年1月23日(土)より全国で劇場公開される。
本作の注目すべき点は「3D立体映像」だということ。
「3D立体映像」はジェームズ・キャメロン監督作品『アバター』
を通してご存知の方も多いだろう。
立体メガネでスクリーンを覗くと、
まるで映像が目の前に迫ってくるように立体感を持つというアレである。
3DCGの技術が実写映像と見分けがつかぬくらい向上した今、
「3D立体映像」へと向かうのは自然の流れといえる。
そうした流行の中、
『劇場版 遊☆戯☆王 ~超融合!時空を越えた絆~』が
「3D立体映像」として登場するのは当然ともいえるかもしれない。

……と思ったのだが、
作品を見終わり、本作における「3D立体映像」の立ち位置に悩んだ。
劇中では「デュエルモンスター」と呼ばれる、カードから飛び出す怪獣がいる。
主人公たちはこの怪獣を操り、強力な敵を打ち倒す。
こうした怪獣のほとんどは3Dデータで描かれているため、
「3D立体映像」として見るのに違和感はない。

問題は主人公たちである。
アニメ業界でセル画調と呼ばれる従来の方法で描かれたキャラクターが
画面の奥、手前、中間といったポジションで配置され、映し出される。
その立体感は立体メガネを通してくっきりと体感できる。
しかし、なんだか居心地が悪い。
その悪さをまとめると以下のようになる。

●セル画調のキャラクターには、動画、仕上げにより、
すでに陰影や線といった立体感が施されている

●手描きで施された立体感の上に、
3D立体映像による立体感が加わっている

●そのおかげで双方の立体感がぶつかり合い、
セルのレイヤー構造がくっきりと見えてしまう

押井守監督の映画『アヴァロン』のような書き割り感といえば、
ご理解いただけるだろうか。
『アヴァロン』は違和感を敢えて演出としていた。

本作はセル画調アニメの3D立体映像化という果敢な挑戦に臨んだ。
その意欲は、次のことを気付かせてくれたように思う。
従来のセル画調で作られたアニメの自然な3D立体映像化を目指すなら、
レイアウト、原画といった画面設計の段階から、
最終的な3D立体映像を計算して描かなければならない。
つまり、アニメーターの脳内で3D立体映像というデジタルな計算をしながら、
手描きというアナログ作業を行う必要があるということだ。

アニメは残像を利用したメディアである。
複数の絵を高速でめくることで動いているようにみえる、
という錯覚を利用している。
手描きなのに、3D立体映像と自然にマッチしているように見せるには、
今まで培ってきた残像の技術を一段掘り下げる必要があるのでは、
と『遊☆戯☆王』は気付かせてくれたのだ。
本作はスタッフクレジットを見ると「立体3Dデザイナー」をはじめとした
3D立体映像に向けた新しい役職が複数設けられている。
実験的な要素が多く詰まった野心作といえるだろう。
また、上映時間は49分という短いものなので、
気軽に3D立体映像を体験できる。
今後のセル画調アニメの行く末を占う意味でも、
映画『劇場版 遊☆戯☆王 ~超融合!時空を越えた絆~』を見て損はない。

映画『劇場版 遊☆戯☆王 ~超融合!時空を越えた絆~』
http://www.yugioh10th.com/

◆柿崎俊道 (かきざきしゅんどう)
1976年生まれ。著書に『聖地巡礼 アニメ・マンガ12ヵ所巡り』、『Works of ゲド戦記』、『Kirari 痛車コレクション』など。Twitterは「syundow」、mixiは「柿崎俊道」で登録。

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2009.12.19
アニメ・映画 ]
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文:荒川直人(映画ライター)

 世界的なアニメの演出家として知られる押井守監督が8年ぶりに手がけた長編実写映画『アサルトガールズ』は、『アヴァロン』(01)の設定を踏襲して新たなゲームフィールドに戦いを挑んだ4人のプレイヤーの物語である。 『アヴァロン』では「すべての映画はアニメになる」と謳い、日本映画の枠を超えたデジタル映像の斬新さや、ポーランドで撮影してもなお強固な押井ワールドの世界観などが話題になったが、当時はまだオンラインゲームの認知度が低く、大半の観客にはどこか実感の乏しい題材でもあった。
 しかし、現在ではどうだろう。オンラインゲームで稼ぐ凄腕のプロゲーマーはリアルに実在し、「ネトゲ廃人」と呼ばれるゲームへ過度に熱中するプレイヤーの出現がニュースに躍ったこともある。より身近な例でも、ニンテンドーDSやPSPといった携帯ゲーム機のWi-Fi通信を使い、複数のプレイヤーが協力し合うパーティープレイの概念は、いまや当たり前である。カプコンのアクションゲーム『モンスターハンター』のブレイク以降、ゲーム機を手に喫茶店やファミレスに集う4人組の若者を見かけることが増え、それはすでに日常の1コマとさえ言える。
 となれば、ラスボス戦で煮詰まった4人のソロプレイヤーが一時的なパーティーを組むという本作の物語は、『モンハン』実写版と捉えるのが一番わかりやすいだろう。
 けれども、ここに登場するゲームは最近のオンラインゲームとは根本的に異なり、みんなで戦うことを基本とするコミュニケーションツールではなく、野望や欲望を満たす肉食系同士のガチンコ勝負という古典的なシステムを導入している。設定的な同時代性を手に入れながら、そうしたゲーム世代に共感を抱かせる構造を放棄しているのは、要するに監督の興味が最初から別のところにあるからだ。監督はオンラインゲームのもっともらしさよりも、戦う女優の存在感、それ一点に狙いを定めている。

 そもそも二時間弱という映画のフォーマットで描ける情報量は少なく、監督もかつて「ドラマ(キャラクター)を描くか、世界観を描くかの二者択一」と発言し、自身は積極的に「世界観」を選択する演出家だった。ところが、本作では「キャラクター」にカメラが向く。しかも主要な登場人物が三人の女優だなんて、まさかあの押井守が「萌え」に走るとはいったい誰が予想したであろう。趣味嗜好の違いはあるにせよ、『アサルトガールズ』とはそんな愉快な顔を内包する一作なのだ。
 さて、肝心の女優陣だが、若手の中でも特に活躍の目覚しい黒木メイサが演じるグレイに注目が集まるのは当然として、本作では意外なことに菊地凛子のルシファが大変魅力的で、『スカイ・クロラ The Sky Clawlers』(08)の声の出演からでは想像できないキュートさが印象に残る。(彼女の不思議な踊りを決定づけた川井憲次の音楽も素晴らしい)。
 サイレント時代の名女優リリアン・ギッシュの美しさに、思わずカメラがにじり寄って生まれたというクローズアップ誕生の逸話を持ち出すまでもなく、女優をカメラに収めたいという衝動こそが「映画」の原初的な力強さだ。それに加えて、銃や甲冑、爆発や格闘アクションなど、押井印のフェティッシュがたっぷりと詰め込まれ、いい意味で学生の撮った自主映画のような瑞々しさがある作品に仕上がった。もちろんそのディテールへのこだわりは、撮影の湯浅弘章、衣装の竹田団吾、VFXの佐藤敦紀ら、実力派スタッフによって支えられている点も見逃せない。

 ただ、キャラクターの内面に迫るドラマはほとんどなく、アクションも総量としてはあまり多くないため、過剰に期待しすぎても肩透かしに遭うだろう。本編が70分しかないのに相変わらずのダレ場はきっちり用意されているので、いつも通りの心構えは必要だ。
 果たしていいことなのか、そうでないのかわからないけれど、理性的な監督が生理的な映画を作りはじめたこの事実には、極論するなら従来の押井ワールドをリセットしてしまうほどの衝撃がある。本作で示された無邪気な演出家の想いは、この先どこへ向かうのだろうか。
 恍惚と不安、共に我にあり。

『アサルトガールズ』 http://assault-girls.nifty.com/

◆荒川直人
1965年、北海道生まれ。プロデューサー。CD「K-PLEASURE Kenji Kawai Best of Movies」で楽曲解説を執筆後、ライターとしても活動。mixiで5年ほど続けた極私的な映画レビューを、現在アメブロにて公開中。

「荒川直人の週末シネマ」 http://ameblo.jp/nippon1939/

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2009.12.12
アニメ・映画 ]
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文;氷川竜介(アニメ評論家)

 1年前には、こんな年になるとはまるで予想がつかなかった。だからアニメは面白い。2009年はSF・ロボットキャラの総決算年として、後世に記録されるはずだ。鉄腕アトム、マジンガーZ、マクロス、ボトムズ、エヴァンゲリオンとリメイク・続編がズラリ。鉄人28号、ガンダムも実寸大立像で参戦し、特撮世界からはウルトラマンと仮面ライダーが攻勢をかける。これにグレンラガン、エウレカセブンという21世紀作品の劇場版も加わった象徴的な年を、アニメ拡大の始まりであった宇宙戦艦ヤマトが復活して締めくくるというのは、あまりにも出来すぎだ。

 その文脈で『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』の意義を考えると、役割は「変わらぬものの存在を示すこと」にあると言い切れる。攻防を繰りかえす激しい戦闘映像やヤマト発進シーンなど気分を盛りあげる音楽主体の演出、「決断力」が試される危機突破、あっと驚く敵側の逆転の仕掛けなど、映画の視聴覚的なエンターテインメントを追求した姿勢は、まさにホンモノ健在の風格を見せつける。映画興行に必要なスペクタクルのハッタリ感を情緒的に見せつけるという点では、近年まれで貴重な映像世界がそこに現出している。
 一方、精神性に強く依存したアナクロに見える部分や強いメッセージ性など、素直には受け入れがたい生硬な部分も同時に見てとれる。おそらく批判の声もあがるだろう。だが、どんな感想も再検討してみると、「ヤマトはもともとそういうものだった」「前に一度は抱いた感想だ」という結論に吸い込まれていく。この構造に気づいたとき、筆者は慄然としたのである。

 そもそも35年前、テレビシリーズ最初の『宇宙戦艦ヤマト』に反応した筆者らファンたちは、どこの誰かに頼まれたわけでもないのに声をかけあい、集い、ムーブメントを興していった。感想を語り合い、資料を保全しようと努力を重ねた。まだアニメ雑誌は創刊されておらず、街にコンビニエンスストアはなく、ネットも携帯電話もない時代、今から考えればお笑いぐさの文通などアナクロな手段を使い、どうなるか結果は分からないが、何かをしようと決断し、行動を起こしたのだ。そうでなければ自分の気に入った作品も時の中で忘れられ、大事なものが滅びそうな気がしたから……。動機はそれだけで、金銭も名誉も眼中になかった。それを保証するアニメマスコミ自体がないのだから、当然だ。
 運良くその熱い想いが1977年の劇場版『宇宙戦艦ヤマト』公開のときに社会的な現象にまで発展し、アニメ文化を作りあげた。だが、言い過ぎであることを承知で断言すれば、その後の展開はヤマトが開いた突破口の上にたった虚妄に過ぎないのではないのか。なのに気がつけば、アニメ文化がフルリセットされて急に消し飛ぶ可能性も想像できない声があふれ、小さい枠組みで「ビジネス」というゲームを縮小再生産することを正道とするプレイヤーが増えた。「復活篇」で描かれている、ブラックホールに飲みこまれて消えそうになる地球は、いま目の前にあるのだ。
 だがしかし、たとえ滅亡が眼前に迫っていたとしても、まだ何かやるべきことは確実にある。「地球に迫る危機をヤマトと乗組員が命がけで救う」という物語の趣旨は、変わっていないのだから。内容の良し悪し以前に、こうした不変のメッセージと意気込みを伝えてくれる作品の存在……それを文字通り「有り難い」と思える体験性こそが、2009年を締めくくる本作最大の価値ではないだろうか。

『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』 http://yamato2009.jp/

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「秩序ある興奮」がもたらす、爽快な大活劇

文;斉藤 守彦

 去年の年末、筆者の連載「特殊映像ラボラトリー」で、2008年のアニメ・特撮映画の総決算を試みたが、その際2008年春に公開された「ワンピース/エピソード・オブ・チョッパー+冬に咲く、奇跡の桜」を評して「この映画の興行収入は9億円だが、この9億円には値打ちがある」と書いた。つまり、シリーズを重ねていくことで、今後伸びる可能性を含んでいる、さらなるブレイクが予測される。そのことを示唆したかったのである。
 実際、最近の「ワンピース」は絶好調らしい。原作コミックも、累計1億7600万部を突破。TVシリーズの視聴率も毎週快調だと、先日の「アニメ!アニメ!」の記事に書かれていた。加えて12月12日から公開される新作映画「ONE PIECE FILM Strong World」の劇場前売りが、シリーズ新記録になる勢いだという。

 前作「エピソード・オブ・チョッパー…」は、その感動的な内容が注目を集めた。試写で見て、あまりにも泣ける話なので、再度シネコンで見た。すると場内には20代とおぼしき女性たちの姿が多く、上映前は「ルフィがねえ・・」「ゾロがいいのよお!」とか話していた彼女たちが、映画終了後、さめざめと泣いている。
 だから今度の映画版10周年記念作も、当然“感動”を全面に押し出した作風で来るかと思いきや、原作者・尾田栄一郎氏は、当初のプロットをボツにしてまで「感動より、興奮」を選んだという。今回は映画ストーリーに加え、製作総指揮・コスチューム&クリーチャー・デザインも手がけている原作者の姿勢からは、原作ファンのための「ワンピース」を創ろうという、強い意志が感じられる。単なる10周年記念映画に名前を出しただけではなさそうだ。

 アニメ映画版「ワンピース」を見ていると、映画を構成する3つの要素・・「ストーリー」「キャラクター」「世界観」が、原作のレベルで既にしっかりと構築されており、それらを映画としてどう表現するか。つまり作家性というか、監督の手腕や力量がはっきりと出る。ストーリーそのものは、ルフィと仲間たちが未知の島を訪れ、そこで敵と対決するというパターンが確立されていることから、演出としてはそのプロセスやシチュエーション、ディテイルをいかに見せて行き、最終的に観客の感情をどこに導くかが重要になってくる。この機会にシリーズの旧作を見直してみたが、中にはルフィたちと敵との対決の描写に力を入れるあまり、「ゴムゴムのー!!」「おのれぇぇぇ!!」の繰り返し。ハイテンションではあるけれど、バタバタしたシーンの連続になってしまい、見た後とんでもない疲労感に襲われる作品や、明らかにこの描写はやりすぎだろう。世界観に反するのでは?・・・と感じられる作品もあった。

 その点新作「STRONG WORLD」は、原作者自ら陣頭指揮をとったこともあり、ストーリーこそいつものパターンなれど、その語り口はきわめて丁寧。「興奮」を与えるために、アクション・シーンばかりをたたみ掛け、観客をどっと疲れさせるようなことをしない。変な言葉だが「秩序ある興奮」を呼び覚ますことに成功しているのだ。ストーリーをきっちりと語り、ひとりひとりのキャラクターに対して、ちゃんと見せ場を与える。もちろんワキを固める多彩なアニマル・キャラや敵キャラも原作者の構築した世界観に、しっかり乗っ取っていることは言うまでもない。
 いわば原作にあった魅力を再度抽出し、原作者自らその要素を点検。その上で、再度アニメ映画の中に投入するという、その試みは大成功と言えるだろう。ただし「STRONG WORLD」の“秩序ある興奮”が呼び覚ます爽快な面白さは、原作者の参加もさることながら、それらのオーダーに確実に対応し、1本の作品に結実させた、境宗久監督とスタッフの手腕の確かさ故だろう。
 「エピソード・オブ・チョッパー…」に涙した女子たちには悪いが、今回のワンピースは、男子優先。正月映画。これを見ずして何を見る。アクションに次ぐアクション。疾風怒濤の大活劇。男の子なら熱くなれ!!ナミの水着姿も、大盤振る舞いの大サービスだっ!!!

『ONE PIECE FILM Strong World』 http://www.onepiece-movie.com/

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2009.11.28
アニメ・映画 ]
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文;氷川竜介 (アニメ評論家)

 『攻殻機動隊S.A.C』、『精霊の守り人』と神山健治監督の送り出すアニメ作品に覚える好感度の所在——それが最近の監督の取材記事を読んで、ようやく腑におちた。「決してあきらめないこと」なのだ。神山監督自身、演出家になるため、またオリジナルのアニメ作品を世に送り出すため、断じてあきらめようとはしなかった。その成果としてTVシリーズ全11話と、その続編として公開される劇場版(全2部作)がある。当然、劇場パート1「The King of Eden」もまた、「あきらめない人たち」の物語なのである。
 とある理由でセレソン(=救世主)として抽出された12人の男女に、百億円がチャージされた「ノブレス携帯」が与えられる。その大金で日本を正しい方向へ導けるか否か。最初に達成できたと判定されたセレソンが「アガリ」になり、2位以下は抹消される。チャージを使いきってもダメ、私用もダメ。試されるのは知恵、求められるのは行動だ。支えるのはマネーパワー、手助けをするのは万能システム“ジュイス”だ。そしてセレソンのすべてを律するのは「ノブレス・オブリージュ=もてる者の義務」である……。
 このTVシリーズの基本設定に即し、最終回で主人公の滝沢朗はミサイル攻撃から日本を救って「この国の王様にしてくれ」とジュイスに願い、記憶を消して行方不明となった。劇場版は、そうやって不在になった主人公を探し求めるところから始まる。

 百億円とは、現代社会において実現可能な「魔法」のことだろう。ノブレス携帯の役割は「魔法のステッキ」で、ジュイスは魔法少女を導く「魔法の国の使者(ペット)」なのだ。そう考えると、描写が深められるセレソンたち(新登場あり)と各々チューンされたジュイスとの関係性が劇場版の大きなみどころになるのは自明と言えよう。
 TV版でも劇場版でも、滝沢は「記憶を失った」ところからスタートする。一般的に人格は記憶と同等・不可分なもので、行動を律すると思われている。百億円もの金を有していれば、なおのこと行動は記憶と金次第になるはずだ。ところがゼロスタートになった滝沢は、常にその時折の状況から周囲を把握し、最良の選択を行動としてとろうとする。決してあきらめずに。そこが彼が他のセレソン、あるいは「東のエデン」グループのメンバーとひと味違うところだ。重要なのは、滝沢が異分子として行動することで、誰もが彼に感化されて「あきらめない人たち」になっていくプロセスだ。波紋のように拡がり連鎖反応を、真摯だがユーモラスな行動の集積として描くところが『東のエデン』で最大の「お楽しみ」である。それは凝縮された時間を過ごす劇場での鑑賞によって、さらに際だつポイントである。
 TVシリーズを第1部とすれば、全3部作の第2部にあたる本作は、途中から始まり途中で終わり、映画の独立性を奪われる中間パートの宿命は逃れられていない。だが、それを補って余りある魅力とテーマ、メッセージの深化を見せる「決してあきらめない作品」なのである。

『東のエデン 劇場版Ⅰ The King of Eden』 http://juiz.jp/blog/

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2009.11.21
アニメ・映画 ]
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文;氷川竜介 (アニメ評論家)

 私がこよなく愛する映画の1本に片渕須直の初監督作品『アリーテ姫』がある。一見してファンタジーの枠組みにあるような設定や道具立てを用意しながら、想像力豊かな少女の前にすべては相対化され、作りこまれたディテールから驚くべき世の実相が浮き彫りになる。それと同種の驚きと、生きることへの勇気を与えてくれる片渕監督最新作が『マイマイ新子と千年の魔法』である。
 題名の「マイマイ」とは主人公の額にある2つめの「つむじ」のこと。麦畑に自分だけのキャラクターを重ね、直角に交わる水路に千年前のイリュージョンを見る新子の想像力の象徴である。物語は表層的には、「ガール・ミーツ・ガール」のかたちで進む。新子が暮らす自然豊かな山口県防府の田園風景。そこに父の仕事の都合で都会的な少女・貴伊子が転校してくる。母親を亡くしたこともあり、周囲にとけ込めないカルチャーギャップの生み出す騒動や、さまざまな問題を乗り越え、新子と2人で打ち解けることが主軸だ。こう紹介すると、ありがちな児童文学を想像するだろうが、問題は「千年の魔法」である。
 物語の時代設定は昭和30年――つまり50年前だ。その世界に対し、千年前の平安時代に暮らす女の子(実は清少納言)が、新子の想像力を媒介に、不思議なかたちで交錯して影響を与える。こう書くとファンタジー映画のようにも聞こえるが、しかしこの作品の姿勢はしっかりとしたリアリズムに根ざしたストイックなものだ。生活描写、時代の空気は、驚くべきディテールの点描で裏打ちされて「たしかにそこにあった」という実感がわいてくる。アカギレをした少女の頬、ゴツゴツになった少年の指先、ガスで動作する冷蔵庫、ラジオドラマに絵物語……。

 高度経済成長期にこれから入ろうとする直前、生活はまだ質素だったが、その分、人と人の関わりあいは濃密だった。ならばこれは人情優先のノスタルジー映画なのか。あるいはロケハンできれいな情景をすくい上げた疑似観光映画なのか。それも違う。50年前と千年前、どちらも過去に間違いはない。ではもう今は消えてなくなってしまったのか。自分とは関係はないのか。そんなことはない。千年前も50年前も等しく発掘を行うシーンが、それを裏付けている。
 こうした反射神経的な決めつけを排除するデリケートさが、最大のみどころだ。確かにそこに存在したものであれば、それは自分の一部であろう。そして、どちらの世界も美化されてはいない。生も死も、きれいなものも汚いものも、子どもの視点で等価におかれ、すべてがひとつに包みこまれていく。そう気づいたとき、ふたつの世界を橋渡しする魔法の意味が明らかになる。その魔法は時を越えて、現代の自分にも染みわたっていく。
 この心豊かな気持ちで充たされる奇跡は、アニメーション映画だけが可能とするものだ。真剣なまなざしで対象を見つめ、何を絵にするのか、抽象化するのか描きこむのか、そうした取捨選択が価値観にまで昇華した結果なのだ。アニメーションとして練りこんだ表現だからこそ可能となる奇跡の時間を、ぜひとも映画館で体感してほしい。

『マイマイ新子と千年の魔法』 http://www.mai-mai.jp/index.html

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2009.11.18
アニメ・映画 ]
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『幻魔大戦』Blu-ray Disc化記念
  りんたろう監督に聞く作品のみどころと最新作

文:氷川竜介(アニメ評論家)

"FORS"の高品位でクリアな映像と音声

FORES1.jpg 2009年11月27日に『幻魔大戦』のBlu-ray Discが発売される。1983年に角川映画が製作したアニメーション映画の第1作目にあたり、2年後の「月刊ニュータイプ」創刊から現在に続く角川書店発のアニメ文化にとって源流にあたる作品だ。滅亡のみを目的とする存在・幻魔の襲来によって地球全土が危機にさらされるという設定で、「ハルマゲドン」という言葉を流行させたという点でも後世に与えた影響は大きい。
 今回のBlu-ray化においては、映像・音声の修復のみならず、マスターのハイクオリティ映像を精密にディスク上に再現するため、キュー・テック社の開発したSUPER Hi-Quality BD Master Process "FORS system"が採用された。"FORS"(フォルス)とは"Faithful Original Sgnal"の略で、デジタルデータ伝送の基準となるクロック信号の高精度化を筆頭に、すべての伝送経路を見直し、デジタル信号をBlu-ray Disc上に再現する忠実度を向上したシステムである。

FRORS2.jpg 筆者もキュー・テック社において"FORS"の有無の比較テストに立ち会ってみた。デジタル信号伝送の効果をみるため、結果はあくまで主観的となるが、確かに高域の伸びが感じられ、楽器の音色の違いがはっきりと分離して感じられる。効果が顕著なのは公開時の2.0chドルビーサラウンドをデコードしたときで、5.1chにも劣らない良好なサラウンド感が得られて驚いた。
 本作はまた、日本を代表するアニメクリエイターりんたろう監督の代表作でもあり、監督の最新作『よなよなペンギン』は12月に公開が予定されている。再生品質が限りなく向上した『幻魔大戦』のBlu-ray Discをさらに深く楽しむため、りんたろう監督に当時の話や監督の中における位置づけ、そして『よなよなペンギン』につながるものをインタビューし、聞いてみた。

■ 『幻魔大戦』りんたろう監督インタビュー
■ 『よなよなペンギン』りんたろう監督インタビュー


角川映画 http://www.kadokawa-pictures.co.jp/
『幻魔大戦』Blu-ray Disc 
http://www.kadokawa-pictures.co.jp/official/genmataisen/

価格:各5200円(税抜)各5460円(税込)
品番:DAXA-1132
映像特典:特報、予告編、スタッフ&キャストプロフィール 
封入特典:《初回出荷分 封入特典》フィルムブックマーク

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アニメ・映画 ]
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『幻魔大戦』Blu-ray Disc化記念
  りんたろう監督に聞く作品のみどころと最新作

『幻魔大戦』りんたろう監督インタビュー

文: 氷川竜介(アニメ評論家)

 僕が長編に入ったきっかけは『銀河鉄道999』(79)でしたが、自分の中で「今後こういうスタイルで作っていけるかな」と長編に腰を落ち着ける方向性を見つけたのは、『幻魔大戦』なんです。原作は角川文庫から出ていた平井和正さんの小説ですし、角川映画初のアニメーション映画ですから、それが一般の映画ファンにも認められるかどうか、角川春樹さんともども勝負に出たい。そんな想いで作った作品です。
 お話をいただいたとき、大友克洋という新しい才能をキャラクターデザインとしてぜひ入れたいと、すぐに思い浮かびました。彼の絵はリアルと言われてますが、独特の線でデフォルメされているんです。その独特の線のシャープさをアニメーターが引ければ、新しいスタイルが獲得できるはずだと、そこにすべての勝負がかかってました。

GENMA1.jpg 作画監督の野田卓雄さんも相当苦労してましたが、なかむらたかし、森本晃司、梅津泰臣という若い大友ファンがいっぱい参加し、大友克洋の持っているエッセンスをうまく踏襲してくれて、当時としてはベストの出来だったと思いますね。大友さん本人も自転車で阿佐ヶ谷のスタジオに通い、漫画家はアシスタントをのぞけば孤立した一人の作業ですから、みんなでワイワイやったのが楽しかったらしいですね。そういう意味では大友さんもアニメにどっぷり浸かっていくきっかけになったと思います。
 クライマックスの富士山では、思いきって永井荷風をカリカチュアして出してみるという突拍子もないアイデアに加え、火焔竜というアニメならではの絵の面白さをメタモルフォーゼ表現で追求しててみたわけです。僕には(葛飾)北斎のイメージがあったんですね。それもとにスペシャルアニメーションでクレジットされている金田伊功くんと話をして、もっとデフォルメを加えて独特の炎にしていく。そのうちに、ご存知のような竜のかたちになっていったわけです。
 実は『よなよなペンギン』にも竜が出てくるので、「僕は竜が好きなんだなあ」って思いました(笑)。それぐらいよく出てきますね。

 音楽に関しては、鼓童の和太鼓は最初から使うつもりでしたが、全体は『銀河鉄道999』の青木望さんの音楽で行こうと思ってたんです。角川春樹さんは僕と同じで映画にどう音楽をつけるか、ものすごく興味のある人で、周りにはものすごくキレるブレーンもそろってましたから、そういう人たちとワイワイやってくうちに「キース・エマーソンはどうだ?」という話が突然出たんです。僕も大好きなミュージシャンですが、これまでにない発想に驚きましたね。
 ただ、スケジュール的に全曲は無理だったのでポイントだけお願いして、あとは青木さんの曲を僕のほうでうまくコントロールして使うことにしました。彼はイギリスから六本木にあった日活スタジオセンターにマシンを何台か持ちこんで、そこに滞在して作曲してました。「とにかく監督は来てくれ」と言われたから、マンツーマンでつきっきりです。朝から裸になってワイン飲みながらラッシュを観て、シンセサイザーを弾きっぱなし。音を作るたびに「どうだ?」って訊かれるんですが、多重録音ですから後から重ねるわけです。最初のベース音だけ聞いても分かるわけがない(笑)。

 その間、僕はスタジオに画素材を持ってきてもらって、そこでチェックしてましたね。彼もアニメーションは初めてで熱心でしたし、やはりプロとしてものすごい柔軟性をみせるんです。仕上がってきたときに「もう少しここをこうしたら」と言うと応えてくれるし、「終わった!」と言いつつ、すぐまたやり直したり。「この音が足りない!」って分かると、どこからか音源を仕入れてきてまたそれを重ねるとか。ほとんど24時間働きっぱなしでした。「これが好きなんだよ」って言ってましたし、あんなに働いたミュージシャンは初めてで、面白い仕事ができましたね。
 ものすごくきれいな曲ですから、その原音がちゃんと出るのはいいですね。

GENMA2.jpg 美術監督の椋尾篁の表現力は、本当にすごいですよね。この映画は美輪明宏が出てくるようなアートっぽい感じをねらい、何か新しい表現を模索してましたが、椋尾美術にはどこか常にアウトサイダー的というか、アヴァンギャルド的なところがあるんです。そこが僕は大好きで、「もっとこうしちゃえ!」と、けしかけてましたね。ただ、僕はイメージは言いますけど、あまり色のことなどは言わないんです。椋尾さんもムサビ(武蔵野美術大学)を出てるので、「黒は黒で使うな」なんて必ず何色か混ぜて黒にするような教育を受けているわけです。でも僕にとっては映画の色なので、「純粋な黒にしてほしい」と思うので、初めての作品ではかなりぶつかったんです。そういうコミュニケーションを通じて、美術監督が何を考えてるのか初めて理解するようになったんです。

GENMA3.jpg ある監督に「最近のアニメはリアルすぎてつまらない」と言ったら、「それはりんさんが始めたことでしょ」って言い返されたんですよ。「いや、吉祥寺や新宿の街が出たのは、この作品向けにスタイル作っただけなんだよ」って言っても、「それは理由になりません」なんて、すっかり悪者にされてますね(笑)。
 それまでのいろんなテレビアニメで、家は家みたいに記号化されていたのがずっと気になってたんです。『幻魔大戦』では「観客にリアリティを感じさせたいなら、それじゃダメだ」と、シナリオで「ある街」としか書いてないのに、「自分が住んでる吉祥寺にしよう」とか「新宿の高層ビルを墓標のように見せよう」と考えました。
 大友くんとキャラクターを作っていくときにも、「りんさん、このキャラクターはどういう靴を履くのかな」とか「セーター着るときはニットを首にかけるのかな」とか「シャツはボタンダウンかなあ」とか会話しながら、全部詰めていったんです。そういうディテールでキャラクターにリアリティ、存在感を出す。そこも面白かったですね。
 どこかで長年、何か自分の中に物足りなさを感じてたんですね。「このキャラクターなら、こんな家には住まないだろう」とか「このイスには座らないだろう」っていうことを、思いきってここで推し進めた。それがやがて、ひとつのスタンダードになったんだと思いますね。

■ 『よなよなペンギン』りんたろう監督インタビュー
■ "FORS"の高品位でクリアな映像と音声

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『幻魔大戦』Blu-ray Disc化記念
  りんたろう監督に聞く作品のみどころと最新作

『よなよなペンギン』りんたろう監督インタビュー

文: 氷川竜介(アニメ評論家)

GENMA KANTOKU1.jpg 僕の演出は『鉄腕アトム』から始まってて、当時20代で手塚治虫さんの原作を好き勝手に食い散らかしてました。でも、自分の中では「手塚治虫の作品を自分なりにちゃんとできてたんだろうか」って、忸怩たるものがずっとあったわけです。そんな思いのたけを全部入れた作品が『メトロポリス』(01)です。あれが終わったとき、僕の中では「2Dでやることは、もうないな」となっちゃったんですね。
 あの作品でもCGを使ってますが、フルCGには興味なかったんです。ところが絵本としてやる予定で『よなよなペンギン』を企画していたら、丸山正雄(マッドハウス・プロデューサー)が「これはフルCGでやろうよ」と目から鱗が落ちるようなことを突然言い出したわけです。僕も否定せずに、「待てよ、もし自分がフルCGをやったら、どういう新しい可能性があるのかな」と、その言葉を受け止めました。

yonapen2.jpg それならピクサーみたいな方向性ではなく、もっと日本人のテイストにしたい。そんなモヤモヤしたものが少しずつ形になっていきました。「僕らがコンピュータの方へ行かずに、逆に2Dアニメーションへ強引に引き寄せよう」ということです。フルCGはキーフレームを打てば間はきれいに動くものですが、あえて2コマ撮り3コマ撮りにしたり、ワイヤーフレームで作ったものをスライディングでフレームインさせる。そんな強引なことをやりました。無謀きわまりない発想ですね。
 その試みは成功して、まったく新しいことができた、日本のフルCGに一石を投じられたと思ってますから、やってよかったと思います。
 シーンによっては背景に120レイヤーぐらい重ね、かなり大変なこともやってます。アメリカならもっと合理的に作るはずです。彼らは常にキャラクター優先で、背景も記号化されてますよね。今回は背景にも情感を入れましたし、やはり日本じゃないとできない表現だと思います。日本のアニメは貧乏なところから始まり、そこで切磋琢磨してノウハウを溜めてきました。それは世界中見渡しても日本しかできないすごい表現の財産だと、僕は思ってるんですね。

 コンピュータだと、キャラクターがどんなに面白く動いても、どこかに冷たさが漂ってる気がして、それが気になってました。絵でいえばクレバスで描いたような、温かみのある手塗りみたいなものが欲しかったんです。だから美術も大変になったし、洋服の質感にしても、本当にスタッフは大変だったと思います。
 全体のねらいは、やはり「動く絵本」ですね。イメージはきちっと伝えながら、馬群(美保子)さんという美術監督の感性にお任せしました。馬篭さんの持ち味はディティールで、描き方は点描画に近いんです。絵筆をすこしずつ動かしながら色をいくつも重ねていく。その繊細な色合いをコンピュータで出すのも難しくて、その苦労は並大抵ではなかったはずです。僕はできるだけ知らんぷりしてましたけど(笑)。その大変な美術監督の質感をコンポジットもうまくやってくれましたね。

yonapen1.jpg いつも自分の作品には、どこかダークな部分がないとモチベーションが成り立たないんです。そのダークな部分と可愛いらしさが同時に欲しいということで、キャラクターは寺田克也くん以外に考えられませんでした。あの寺田キャラををモデルにしたスタッフも大変でした。あのほっぺたの感じなどは、CGが一番苦手とするものですからね。いい感じで彼の絵がCGになってます。
 その辺は本当にすべてがうまくかみ合ったなって想います。そうそうないですよね。こうしたがんばりは、はっきり画面に出てパワーになって出ています。無謀な試みでしたが、「ここまでできれば、怖いものなしだ」と、次がもっと楽しみになりました。

 『よなよなペンギン』が子ども向けを意識したかどうか、自分の中ではよく分かりません。たとえ子ども向けに見えたとしても、どこかひそかに大人へ向けて作ってるところはあります。作品の中には、今の社会状況を反映したものがいっさい入ってませんし、時代のアクチュアリティーは、まったくありません。ただ、今の子どもたちにダブらせた部分はあります。子どもにとってのこの時代は世界中が息苦しくて、酸欠状態だと思うんです。そういう時代にも、子どもたちの中には心の可愛らしさみたいなものが本来あるはずだから、そこに触れればと。それを感じとってくれればなと思います。
画像: (c)2009 りんたろう・マッドハウス/「よなよなペンギン」フィルムパートナーズ・DFP

■ 『幻魔大戦』りんたろう監督インタビュー

《りんたろう監督からのメッセージ》

『幻魔大戦』
 今は日本のアニメーションは長編が主流になってきてますが、そのさきがけということを、どこか意識して観てほしいです。もちろん26年前の作品ですから、技術などいろんなところで古さはあると思いますが、「こういうスタイルにした」という当時の想いをどこかで意識して観てもらったら、僕としてはうれしいです。

『よなよなペンギン』
 まったく誰も見たことない、日本ならではのフルCGという領域に挑戦し、一石を投じた作品です。余計なことはいっさい考えず、シンプルに観てもらうとうれしいですね。

(一部敬称略/2009年10月25日 秋葉原UDXシアターにて)

『よなよなペンギン』 http://yonapen.jp/index.html
12/23(水・祝) 全国ロードショー
配給:松竹

     yonapen3.jpg
(c)2009 りんたろう・マッドハウス/「よなよなペンギン」フィルムパートナーズ・DFP

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2009.06.05
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注目すべきプロモーションアニメの新トレンド
    『無限航路』に見るゲームとアニメの相乗効果

文:氷川竜介(アニメ評論家)

 アニメは何もTVや劇場映画だけではない。意外なところに要注目のハイクオリティアニメが存在していて、にもわらず肝心のアニメファンに知られていないケースもある。ここではその一例としてニンテンドーDS用ゲーム『無限航路』(製作:セガ/2009年6月11日発売予定)のプロモーション用短編アニメーション『無限航路 Animated short film』を紹介してみたい。
 映像の世界には以前からPVというジャンルがあり、音楽や玩具の宣伝用にアニメが作られることがあった。たとえばメロディーや歌詞だけでは伝えきれない世界観やイメージをビジュアルで触発させたり、ロボットや魔法少女が玩具そのままではなく現実ように活躍するところを描いたり。訴えたい要素をビジュアル化してユーザーにぶつけるアニメは、いろんな事例があった。
 ところが、ゲームだけは少し事情が違うように思う。売れ筋ゲーム作品をマルチメディア的にTVシリーズとしてアニメ化する例はあっても、新作に対して「ゲームの世界観を伝えるためのプロモーションアニメ」となると珍しい。『無限航路』はその希有な事例に該当する。しかも意外と言っては失礼だが、スタッフもキャストも実に豪華で、映像のクオリティもかなりのものなのである。

 アニメーション制作を担当するプロダクションは、GONZOとProduction I.G。アニメファンなら知らない人はいないほどの超有名ブランドである。そして監督は、ソエジマヤスフミ。デジタル系のディレクターでは非常に著名で、NHKで放送されたオムニバスアニメ『アニ・クリ15』(アニメクリエイター15人を選抜した1分の短編)でも『火男(ヒョットコ)』という斬新な映像で注目された。スタッフとしても、『巌窟王』(デジタルディレクター)、『ケメコデラックス!』(3DCGI)、『リストランテ・パラディーゾ』(アートディレクター)など目に焼きついて離れないような映像を提供、特にキーになる表現を美術的なデジタル技法で印象づけている。
 アニメ用のキャラクターデザインは、『ケロロ軍曹』や『カレイドスター』の追崎史敏が担当。とりわけアニメファンに注目してほしいのは、ゲームの鍵となる戦艦のデザイナーとして起用された面々である。大久保淳二(出雲重機)、新貝田鉄也郎、寺岡賢司、時代みつる、宮武一貴、村田護郎、山口 恭史、鷲尾直広といった当代随一のメカデザイナーが総結集しているのだ。これだけのメンバーがそろうのは壮観で、その戦艦の一部はアニメにも登場してくる。
 キャストもまたゴージャスだ。宇宙を目ざす少年ユーリ役を演じるのは朴璐美、彼を宇宙へ導く美女トスカ・ジッタリンダは塩山由佳、ユーリの妹チェルシーは新谷良子と注目声優が結集。加えて大海賊ヴァランタイン役の銀河万丈を筆頭に、茶風林、榊原良子、立木文彦といった渋いベテランが作品を固めている。
 加えてアニメ用の音楽は『ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日-』の天野正道が担当。演奏は東京交響楽団で、荘厳かつ重厚なクラシック調なものが流れるのだから、実にたまらない。

『無限航路』に見るゲームとアニメの相乗効果 (2)に続く

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注目すべきプロモーションアニメの新トレンド
    『無限航路』に見るゲームとアニメの相乗効果

文:氷川竜介(アニメ評論家)

 プロモーションアニメは全4部に分かれ、物語的には「これぞまさしくスペースオペラの王道」とでも言うべき大河SFのイントロダクション部分を描いている。人類が銀河にあまねく拡がったはるかな未来、銀河の辺境惑星で暮らすユーリ少年が抱く宇宙へのあこがれから、この壮大なストーリーは幕をあける。
 妖艶な美女トスカに導かれ、「自分の宇宙船をもつ」という思わぬかたちで始まった冒険の旅は、やがて未知なる星の大海へと続いていく。多くの人との出会いや別れ、宇宙艦隊戦や理不尽な支配者との肉弾戦など、多彩な激闘の経験を通じて、ユーリと妹チェルシーは宇宙を変革させる謎の力『エピタフ』にまつわる自身の運命に気づいていく……。
 希望を乗せてドックから発進していくユーリの宇宙戦艦。漏斗のような超空間を通過する独特の宇宙航行手段の表現。居並ぶ戦艦から艦載機が次々と発進し、艦砲射撃が交わる宇宙海戦。そして剣と剣の戦いや宇宙海賊まで登場する、多彩で波瀾万丈なアニメーションのアクション映像は、スペースオペラ的な醍醐味で充満している。
 技術的には2Dと3Dをハイブリッド化した最先端なもので、特に「光」と「色彩」を活かしたデジタルエフェクトは、ソエジマ監督らしいカラフルで豪華絢爛なものとなっている。宇宙の深淵へと旅立つ少年ユーリの冒険譚は、プロモーション終盤、ゲームではさらに後半へと続くはずの青年編での片鱗が入ることで、「宇宙の謎」に迫る壮大なロマンに成長物語の要素が加わることも予感させてくれる。
 こんな風に、短い時間ではありながら、想像力を存分にかきたてる要素をぎゅっと圧縮したアニメ映像なのである。

 高クオリティなアニメ映像の余韻の中で、ふと我に返って疑問に思うのは、「なぜこの作品ではアニメがプロモーション手段として選ばれたのか?」ということだ。
 これはなかなか興味深く考察可能なものである。まずゲーム媒体がDSという携帯機であること、ボイスも併用しているが、大半はテキストベースで語られる「宇宙創生の秘密」など銀河系レベルの巨大サイズの物語であること。つまり、「想像力喚起」を鍵とするゲームであることが、最大の理由であろう。つまり、ゲームの奥深くに内包されている雄大なイマジネーションの濃縮されたエッセンスを、前面に引き出しイマジネーションを喚起する触媒として、アニメという表現が選ばれたということではないだろうか。
 その文脈で次に注目すべきは、このゲームのジャンルが「RPG」だということだ。「ロール・プレイング」とは想像力を使って「役になりきる」ことが肝要である。そのためのチュートリアル的にアニメが機能するという見方もできるだろう。
 そして最後に強調したいのは、「宇宙戦艦もの」と「アニメ」の強い親和性だ。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』などファンタジーRPGが「剣と魔法の世界」を描き、アイテムをゲットしてパーティーキャラを成長させるのに対し、『無限航路』では「スペースオペラの世界」を描き、「艦隊と戦艦」がキャラに代わる役割をはたす。モンスターとのバトルは艦隊戦に置き換わり、戦艦を組み立てて装備を厚くして成長させつつ、最後の大ボスに向かって旅を続けていくのが、このゲームの楽しみどころだ。
 あそこまで充実した宇宙戦艦デザイナーがそろったのは、そのカスタマイズのためである。そう……これはまさに『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河英雄伝説』のファン向け、戦艦バトルのあるスペースオペラの世界をRPGに置きかえたものと言える。かつて宇宙アニメにハマった世代には直撃と言えるゲームであるし、しかもその戦艦を「自分色」に染めながら銀河の旅を進めていけるというのは、一種の「夢の実現」とも言える。

 このように考えてみれば、プロモーションアニメを手がかりに総合的な世界観をプレイ前にまず脳内にたたきこみ、それを「想像力の触媒」にしつつゲームを楽しむという方法論は、非常に理にかなった遊び方だと思えてくる。もともとアニメもRPGも想像力に訴えかけるメディアだからこそ、その相乗効果にはおおいに期待できるものがある。
 ハード機器が高度に発達したからと言って、何もゲームすべてが重厚長大なにならなくてもいいだろう。DSなどのモバイル的な小型ゲームが見直されつつある昨今、壮大な「宇宙創生のロマン」などという巨大なイマジネーションを、「アニメ映像+テキスト+RPG」で喚起させるのは、非常にアリだと思う。
 こうしたメディアのクロスオーバーに、何かまだ充分に試されていない可能性、大きな鉱脈が秘められている気がする。ゲームとアニメの響きあいから、さらなる次世代の作品の発展もあるかもしれない。今後の展開に、要注目であろう。

 興味をもたれた方は、まずネットで公開中のアニメ版からご覧になってはいかがだろうか。そこから思ってもみなかった、壮大な銀河宇宙への旅立ちが始まるかもしれないのだから……。

『無限航路』に見るゲームとアニメの相乗効果 (1)に戻る

『無限航路』 公式サイト http://mugen.sega.jp/

「無限航路 Animated short film」

【メインスタッフ】
   
監督: ソエジマヤスフミ
アニメーションキャラクターデザイン: 追崎史敏

美術監督: 西野隆世(株式会社バンブー)
      竹田悠介(株式会社バンブー)
デザインワークス: 土屋亮真 
3D監督: 磯部兼士
       金子友昭
色彩設計: 内林裕美
撮影監督: 北村直樹
編集: 堀内隆

作曲・ 指揮:天野正道
演奏: 東京交響楽団

制作: GONZO / Production I.G

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2008.07.28
アニメ・映画 ]
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 なんとも奇妙に歪んだ作品、『崖の上のポニョ』を最初に観た感想だ。1時間41分の物語は、映画が本来必要とするフォーマットをことごとく逸脱しているからだ。
 ないない尽くしと言っていいだろう。物語は山場らしい山場がなく、絶えずゆるゆると次の場面へつながって行く。登場人物同士が持つ感情的な相克もなく、故に人間ドラマとは無関係だ。彼らは異形の存在である「ポニョ」をごく自然に受け入れる。疑問や疑念、議論の余地はない。魚の子「ポニョ」がいる。その子が人間になりたがっている。それが全てだ。

 最も奇妙なのは物語の中で起こる多くの物事に対して、ほとんど何も説明がされていないことだ。「ポニョはなぜ人間になりたいと思ったのか?」、「ポニョの父フジモトは、なぜ人間を止めたのか? どうやって人間を止めたのか?」、「月はなぜ地球に近づいてきたのか?」、これはほんの一部で数え出したらきりがないほど謎だらけだ。
 物語の説明をしないのは、宮崎監督の最近の数作品に共通する特徴でもある。例えば、「『ハウルの動く城』のハウルはなぜ、誰と戦っていたのか?」、「『もののけ姫』のアシタカにかけられた呪いは結局どうなったのか?」など、物語の重要な部分がしばしば説明されずに欠落している。

 これは宮崎監督が、物語の語り手として未成熟なわけでない。説明の欠落は、監督がこうしたこと説明する必要をあまり感じてないためである。つまり、監督にとって物語は、普通の意味で完成されている必要はないようだ。
 宮崎監督が既存の映画フォーマットを無視するのは、確信犯的である。実際に、宮崎監督は今回、エンディングクレジットにおいて、全ての関係者の肩書きを外し、アイウエオ順に並べたことをこれまでになかったことと誇らしげに紹介した。画期的であるが、映画のクレジットを資料として利用する人にとってはやや困った状態だろう。
 そうした行動には、監督の現在の映画の演出に共通する約束事への疑念があるのでないだろうか。

 ここで誤解されると困るのは、こうした常識外れの『崖の上のポニョ』が、面白くない作品だと思われることである。映画が映画で在りえるための様々な条件が失われているにも関わらず、『崖の上のポニョ』はむしろとても興味深いし、考えさせることが多い。子供たちにとっては楽しい作品だろう。
 であれば、『崖の上のポニョ』は、これまで映画が楽しくあるべきために必要とされてきたフォーマットが、本当に必要なのか?正しいのかを問いかけている。

 映画であれテレビ番組であれ、あるいは小説や絵画、音楽でもいい、それらが名作となりうるのは、他者とは異なる際立った個性が立ち上がって来る時だ。
 つまり、端正な作品は、良作になりえても、名作にはなりえない。むしろ、名作は常識破りの行動が、既存のフォーマットの美しさを打ち破った時にうまれるのでないだろうか。

 おそらくそれが、多くの映画ファンが、現在のハリウッドの大作エンタテイメント映画に対する違和感の源にある。そうした作品がエンタテイメントとしての面白さほどは心に残らないのも、ここに理由があるのかもしれない。
 確かに完成度は高く、面白い。しかし、計算し尽くされているが故に、何か同じ様な印象ばかりが残る。そして、あまりにも整然としていてひっかかりがないため、するりと抜けて行ってしまう。観客は映画に満足しながらも、関心は既に次の最新作に移っている。

 例えばディズニーやピクサーのアニメーションは、隙間なく計算し尽された完成度が高い。新作を観るたびにその出来に驚かされる。それはいわば、真円の真珠の魅力である。どこから見ても一様に素晴らしい。
 一方で、物語に歪みと隙間をあえて作りだす『崖の上のポニョ』は、バロック真珠の魅力でないだろうか。バロック真珠の魅力は、予想のつかない独特の歪みであり、観る方向、観る人によって異なって映る美しさである。そして、ほかに同様なものがない故に際立った存在でもあるのだ。
[数土直志]

崖の上のポニョ 公式サイト http://www.ghibli.jp/ponyo/

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2007.07.30
アニメ・映画 ]
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byミルミル

[編注]
このレビューに中には『河童のクゥと夏休み』のラストシーンへの言及があります。映画未見のかたは、その点をご了解のうえお読みください。


7月28日、「河童のクゥと夏休み」が公開になった。
「クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲」などで知られる原恵一監督期待の新作とあって、観客は親子連れの他、カップルや1人で訪れるアニメファンも多かった。

驚いたのは、この2時間18分という長丁場で子供たちが飽きないことである。シリアスな展開になる東京タワー前まで、しばしば場内には子供たちの笑い声が響いた。
さすがしんちゃんで子供たちの呼吸をつかむのが上手い原監督ならではである。

平和な家庭に突然客が訪れ、てんやわんやになる、という設定は昔からよくある。宇宙人あり、恐竜あり、デジモンあり、平安町の貴族の子供あり。それら珍客の中で際立った印象を残すのが、主人公のクゥの礼儀正しさだ。
ちょっと耳に懐かしいなまり言葉で、きちんと膝をつき手をつき、何度も「おまえ様たちには世話になった」と頭を下げる。ほんとはTVに出たくなんかないのに、「困ってるんだな。おれのことでこれ以上迷惑はかけられねえ」と承諾する。
礼儀正しく、そしてけなげだ。

不思議なことに、膝をついて挨拶をされると、される側も膝をついて同じく頭を下げる。礼儀正しさは相手からも礼儀正しさを引き出す。
河童の子供はそれができるのに、人間の側は携帯カメラを向けるばかり。犬の「おっさん」が車にはねられても、誰も助けようとせず、取り囲んで携帯で撮影を続ける無神経さが逆に生々しい。

クゥの物語には、世界の存亡にかかわる秘密はなく、戦うべき敵も存在せず、都市が破壊されるようなダイナミックなシーンもない。
ただひと夏、河童の子供が家に来て、そして別れが訪れる。それだけのこと。
それだけなのに、何度も何度も涙がこぼれるのは、クゥの心がまっすぐ観るものの心を打つからだ。悲しみも喜びも飾り気なく、大きな黒い目が涙を浮かべるごとにこちらも涙があふれてくる。

映画を観た子供たちにお願いしたい。
うっかり道で何かを拾ったら…子猫でも宇宙人でも河童でも、家に招きいれた以上は守る責任があることを知って欲しい。
あなたの家を訪れた客は、あなたの客、広い世界の中で、あなたの家を選んで訪れた客なのだ。おろそかにせず、せいいっぱいもてなして欲しい。
そしてもし自分が客の立場になったら、クゥの礼儀正しさを思い出して、「お世話になります」「ありがとうございます」と挨拶しよう。
今の日本が失ったものが、河童の住める自然だけでなく、古式ゆかしい立ち振る舞いだなんて言われるのは恥ずかしい。

最後、新天地やんばるに移ったクゥは、川の中で再び頭を下げる。
「この土地の神様。おらが生きていけるだけの魚を捕ることを許してください」
そしていつか、仲間の河童を探す旅に出ようと決意する。
今は別れた、康一一家に会うことを夢みる。
「…父ちゃん、おら、人間の友達ができた…」
オトナ帝国に涙した大人の皆さん、ぜひぜひ、小さなお子さんと見にいって欲しい。
クゥといっしょに、笑って涙すること請け合いである。

ラスト 沖縄のキジムナーとクゥの会話。
「お世話になります。キジムナーさん」
「おれのことは…そうだな、「おっさん」と呼んでくれ」
ここでまた泣いてしまったあなた、きっと私と心が通じています。
「おっさん」、かっこよかった…。

河童のクゥと夏休み
公式サイト http://www.kappa-coo.com/

著者の紹介 ミルミル
カードからドール、セル画、アンティークまで幅広い知識も持ち、日々コレションを続けている。また、おたく分野の株式投資を得意としており、著書「萌える株式投資」(ベストセラーズ)ほか、雑誌記事の掲載も多数ある。趣味で作る同人誌も人気が高い。

ミルミルのオタクな株式投資blog  http://blog.livedoor.jp/mujinakko_2009/

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2007.07.15
アニメ・映画 ]
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byミルミル

 7月14日 ポケモン映画10周年となる「ディアルガVSパルキアVSダークライ」が封切られた。
 いち早くダークライが欲しかったミルミル、朝一番有楽町の映画館に出動、朝8時半というのに場内は満席、入れない家族が子供をなだめる姿さえあった。

 今回の映画の目玉は、何といってもスクリーンから、ニンテンドーDSのソフトに、「ダークライ」が配信されるということ。どの時点で配信されるのかと思ったら、随時行われていて、上映前でも、上映後でも(理論上は上映中も)受け取り可能であった。
 もう劇場内に入ると、子供たちの歓声でいっぱい。「来た! ダークライだ!」「うおー、すげー!」振り返ると、DSを見つめる子供たちの目が輝いている。今回のプロモーションは大成功だ、とその表情が語っていた。(ちなみにミルミルのダークライはせっかちな性格だった)。

 今回のポケモンはスペインを彷彿とさせるアラモスタウンが舞台。そして時空の彼方で戦いを始めたディアルガVSパルキアの影響が影を落とす。
 ディアルガもパルキアもいわばポケモンのボスキャラで、通常のポケモンとは違い人外の存在である。時間を支配するディアルガ、空間を支配するパルキア、その戦いの影響は天災のレベルで、人にはどうしようもない。

 しかしアラモスタウンのダークライは…

 今回の映画の主役、ダークライはまさにヒーローだった。
 その姿、能力から人に忌み嫌われたダークライは、しかし自分を受け入れてくれた少女(と、その子孫であるヒロイン)のため、神の名を持つポケモン2体に戦いを挑む。
 街を守っているにも関わらず誤解され、街の住民から攻撃を受け、にも関わらず、孤独な戦いを続けるダークライ。あまりにもかっこよすぎ!
 イメージはハリウッド映画の代表、バットマンとか、スパイダーマンに近い、といえばお分かりだろうか。
 神々の戦いの影響で、異次元に消滅しようとするアラモスタウン。そこに響き渡るオラシオンの音色…変形する時空の塔の美しいイメージ。

 ポケモンは子供向け映画であるので、ストーリー上のルールがある。
 それは完全な悪役が存在しないこと(野望を持つ人間は出てくるが、他者を苦しめて喜ぶタイプは出てこない。またポケモンも他のポケモンを支配し、傷つけることを喜ぶものはいない)。今回ディアルガとパルキアは戦うが、それは「出会うべきではなかった者が出会ったため」のアクシデントである、と冒頭、説明される。彼らは出会いがしらに戦い始めたが、それで世界を滅ぼそうとしたわけではない。
 それぞれのキャラは人もポケモンも、自分にできることを一生懸命行う。一方的に守られるだけ、ヒーローの活躍に期待するだけ、ではなく、それぞれできることをがんばっている。
 とはいえ、今回の主役、ダークライのかっこよさは突きぬけているのだが…
 ラスト、神々の戦いに巻き込まれて消滅したダークライを悼み、涙する登場人物たち、しかし、夕日映す山の斜面を見ると…この先は言うまい。
 
 今回、初日だったこともあり、舞台挨拶を見る機会にも恵まれた。
 湯山監督、10年連続参加の山寺宏一氏、ダークライの声をあて俳優石坂浩二氏を始め、そうそうたるメンバーが並び、ファンの喝采を浴びていた。
 しょこたんこと、中川翔子さんが「10年前、私は小学生で映画館でポケモンを見ていました。サトシといっしょに旅がしたい、ポケモンの住むあの世界に行ってみたいと願っていたのが、こういう形でかなって夢みたいです」と言うのを聞き、ああ、ポケモンは10年続いたのだな、と改めて10年の重みを感じたり。
 きっとこの先また10年続くのだろうけど、とりあえずラストに恒例の次回予告。
 チラッと出てきたあの姿はレジギガス、ということは…
 次回の舞台はキッサキ神殿? 
 
 オマケ情報:入場プレゼントはキラキラ光るダークライのポケモンカード! DSがなくてもダークライをゲットできる。忘れずに受け取ろう。

ポケモン映画公式サイト「ディアルガVSパルキアVSダークライ」
http://www.pokemon-movie.jp/

著者の紹介 ミルミル
カードからドール、セル画、アンティークまで幅広い知識も持ち、日々コレションを続けている。また、おたく分野の株式投資を得意としており、著書「萌える株式投資」(ベストセラーズ)ほか、雑誌記事の掲載も多数ある。趣味で作る同人誌も人気が高い。

ミルミルのオタクな株式投資blog  http://blog.livedoor.jp/mujinakko_2009/

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2006.04.09
アニメ・映画 ]
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 押井守監督の新作映画『立喰師列伝』の劇場公開が、4月8日から始まった。公開を喜ぶと同時に、僕は映画『立喰師列伝』の微妙なポジションに少しばかり心配を感じる。この映画を観ない多くの人が、この映画を誤解するかもしれないという不安である。
 低予算映画、押井守独自の戦後史の読み直し、親しい友人を登場させた私的な空間といったものが、この作品にマイナーで難しいものというイメージを与えるからだ。
 しかし、実際の映画『立喰師列伝』は「普通に面白いエンタテイメント作品」である。深く考えることなく映画館の座席に座って楽しい時間を過ごす作品なのだ。

 これまでの押井守監督の作品は、観ることに忍耐を要求し、その忍耐のうえに世界が開けるといったものが少なくない。あるいは、観る者に物を考えることを要求する作品といっても良いだろう。
 例えば『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』では、夢と現実の違いを観る者に直接問いかけていたし、『攻殻機動隊』では草薙素子というキャラクターを通して、自我とは、自己の存在は何かを問いかけ続けていた。
 最新作の『イノセンス』に至っては、全編がキャラクター同士の問いかけから成り立っていた。そして、こうした思考の機動装置としての役割が、これまでの押井作品の魅力でもあった。

 しかし、『立喰師列伝』にはこれまでの作品と違い、執拗な問いかけが存在しない。作品世界を作り上げている虚構の戦後史といったなかに、現実と非現実の曖昧さや虚と実の違いという押井守のこれまで多く見られたテーマは存在している。
 あるいは、月見の銀二が言うそばの中の景色論やフランクフルトの辰の自己との対話などにそうした残滓をみることも出来る。ところが、それらは問いかけではなく既に結論が存在している。問いかけとしては、成立していない。
 つまり、『立喰師列伝』のなかでは虚構は作られるが、それは観客に提示されるだけである。

 むしろ、作品のなかで印象深いのは、ハンバーガーを次々に注文をして、ハンバーガーチェーンを壊してしまう立喰師の存在の馬鹿馬鹿しさだったり、インド人そっくりの日本人立喰師という存在のあり得なさだったりする。
 本来エンタテイメントというのは、くつろぎの時間を観る者に与える作品である。映画『立喰師列伝』は、これまでの押井守のテーマを内包した物語であると同時に、気軽に楽しく見られるという部分でエンタテイメント作品なのである。

立喰師列伝公式サイト 

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2006.01.30
アニメ・映画 ]
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 今年の1月より三鷹の森ジブリ美術館は、3つの新作短編アニメをジブリ美術館限定で公開している。現在公開されているのは、『水グモもんもん』、『やどさがし』、『星をかった日』の3作品である。それぞれの作品は、アニメの質感も、物語のテーマも大きく異なっている。

 先日、ジブリ美術館に行った際に、これらの作品の中から『星をかった日』を観ることが出来た。美術館では、一回の入場で一作品しか観覧出来ないのだが、3作品の中で一番ジブリらしい作品ということでこの映画を選んだ。
 ジブリらしさというのは、少し勝手な言い方かもしれない。なぜなら、ジブリの作品は宮崎駿作品から『火垂るの墓』や『ホーホケキョ となりの山田君』など意外に幅が広いのだ。
 それでも、僕にとってのジブリは、少年や少女が主人公のSF・ファンタジー作品である。けれども、物語が中心でSFやファンタジーであることを意識させない、そして心を暖かくする物語である。
 そして、今回観た『星をかった日』は、僕のそうした期待に完全に応える映画だった。

 話は実は判りにくい。田園風景とSF的世界、ファンタジー的な世界が同居している。しかし、そうした物語の世界観は全く説明されない。主人公の少年ノナがなぜ農園で働いているのか、なぜ主人公は本来の住まいである時間局に帰りたくないのか、彼を保護するニーニャとのノナの関係はといったことは全く語られない。
 話は市場に行く途中で買った星の種を少年が育て、宇宙に放つ、それだけのお話である。

 物語の背景は説明されない代わりに、水の流れシーンや田園風景が、丁寧に贅沢に描かれている。一言でまとめれば、満足度も質もとっても高い作品であった。
 正直、最近のえらくなってしまった宮崎駿監督や権威化してしまったジブリの劇場作品には、ある種の反発も持っている。しかし、悔しいけれどこの作品はうまい。多くのテレビアニメにありがちな刺激的なエンターテイメントでなく、いいアニメを観たと幸福感を感じることの出来る作品。それが『星をかった日』であった。

『星をかった日』
原作…井上直久「イバラード」より/脚本・監督…宮崎駿
音楽…都留教博・中村由利子

三鷹の森ジブリ美術館 
スタジオジブリ 

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2005.09.04
アニメ・映画 ]
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 テレビ放映で人気になり劇場展開されるアニメ作品の多くが、これまでのファンに対するサービス精神に溢れている。人気キャラクターの総出演や人気アーティストによる主題歌、あるいは劇場公開に先立つ舞台挨拶などもこれに入れていいかもしれない。
 8月に公開された『鋼の錬金術師‐シャンバラを往く者‐』もまたサービス精神に溢れた映画だった。成長した主人公達をスクリーン上に登場させることで、作品としての目新しさをアピールする。一方で、テレビシリーズに登場した人気キャラクターを数多く登場させファンの満足感を高めている。
 しかし、こうした従来のファンへのサービスは、これまでのテレビシリーズを知らない劇場作品の観客にしばしば戸惑いを与える。初めて観た作品の劇場版の感想に「よく判らなかった」といったものが多いのは偶然ではない。それは劇場作品の目的が従来のファンに向いている時に常に起こる現象なのだ。
 
 『シャンバラを往く者』についても、こうした面がややあった。2時間という枠にしては多過ぎるキャラクターが、主人公エドと弟アルの兄弟の絆という最も肝心な物語の核をぼやけさせてしまっているのだ。エドの父親やラース、グラトニーの登場やロイの国境警備のエピソードは本当に必要だったのかなと感じる。
 そうした物語の拡散といった小さな不満はあるものの全体として『シャンバラを往く者』は、十分楽しめるよく出来た作品だった。それはテレビシリーズとは、異なった独自のテーマと物語を高いレベルでまとめあげているからだ。これはまた、荒川弘のマンガから独立したアニメ版『鋼の錬金術師』の完成でもある。

 『シャンバラを往く者』は、舞台の大半を主人公たちの本来の世界ではなくパラレルに存在する我々の世界におくことで、テレビシリーズから独立した作品にすることに成功している。ふたつの対立する世界とその狭間で苦悩するエドは全く劇場版のオリジナルである。そして、それこそが今回の映画の魅力のひとつであった。
 こうした原作との違いはテレビシリーズ後半の原作とは異なった作品として展開したアニメ版『鋼の錬金術師』の集大成ともいえる。アニメ版『鋼の錬金術師』は、『シャンバラを往く者』によって完全に原作と離れ、別個の作品として完成された。
 アニメ版『鋼の錬金術』の監督水島精二はこの映画『シャンバラを往く者』を持って、独立した才能あるアニメ監督として評価されることが可能になったのでないだろうか。

「錬の錬金術師 シャンバラを往く者」公式サイト 
錬の錬金術師公式サイト 

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2005.02.11
アニメ・映画 ]
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 『ベルヴィル・ランデブー』を観てきた。『ベルヴィル・ランデブー』は、フランスのアニメーションである。正確に言えばカナダ、ベルギーとの合作なのでフランス語圏のアニメーションといえる。現在、日本で劇場公開中だが話題になることが少ない。しかし、このアニメーションはかなり凄い。
 監督のシルヴァン・ショメ氏は、過去に広島やアヌシーのアニメーション映画祭でグランプリを受賞して来た知る人ぞ知る才能である。また、この作品は2003年のニューヨークとロサンゼルスの映画批評家協会賞のベスト長編アニメーション賞を受賞している。そして、2003年のアカデミー賞長編アニメーション部門と作曲賞にもノミネートされているのだ。2004年の日本アニメの状況を考えれば判るように、これは大変なことである。米国の賞であるアカデミー賞に海外のアニメーションがノミネートされることは、それ自体がニュースだからだ。
 
 作品のストーリーは、とても単純である。謎の都市ベルヴィルのマフィアに誘拐された孫を助け出すおばあさんの物語といえば説明しやすい。しかし、実際には物語自体の見せ所は少なく、凝った映像表現や不条理な話の展開、独特のキャラクター表現こそがこの作品の持ち味である。確かに、哀愁のこもったジャズ(スィングジャズ?)の音楽や絵本のような趣のある色の落とした美術と色調は素晴らしかった。
 ところが、僕と波長の合ったのはそこまでである。正直、僕にはかなり辛い内容であった。欧米の新聞の挿絵よくみられるような極端にカリカチュアされたキャラクターが生理的に受付けられない。そうしたキャラクターのセリフがほとんどないまま進むストーリーを不気味に感じてしまう。卓越したナンセンス、シュールと誉める向きもあるのだが、僕には『うる星やつら』のナンセンス加減のほうが、レベルが高く思えるのだ。エンターテイメントであれ、芸術あれ、風刺であれ、正直あまり面白いと感じなかった。
 しかし、これはあくまでも僕の感想である。僕がアニメーションの映像表現に求めるのはあくまでもエンターテイメントやストーリー性である。あまり、シリアスなものや高尚なものは肌に合わないからだ。
 自分には合わないなと思う一方で、こうした作品がつぼに嵌る人もかなり多いだろうというのも容易に想像が出来た。実際、この映画を一緒にみた友人は、物語に出て来た犬のキャラクターに魅かれていたし、それなりに面白いと言っていた。
 つまり、この作品は観る人を選ぶかなり個性の強い作品である。作品は一般大衆に向けて作られているわけではない。大衆の支持は得られないが、おそらく、100人のうち何人かは絶賛するに違いない。そういう作品だ。それは、日本アニメとも米国アニメーションとも異なるヨーロッパのアニメーションの個性であり、差別化であるともいえる。
 おそらく、『ベルヴィル・ランデブー』を観た人は、肯定的であれ否定的であれ、非常にヨーロッパ的であると感じるに違いない。つまり、日本や米国の一般的なアニメーションにない芸術的な、あるいは政治的なニュアンスにヨーロッパ風を感じるだろう。それは、日本アニメが米国アニメーションと差別化しているのとは別の意味で、オリジナルなものなのである。 
 そして、現在、少なくとも商業面でみた時に、日本と米国アニメーションの間に沈みがちなヨーロッパのアニメーションが成功する道はそこにあるに違いない。そうした中で、『ベルヴィル・ランデブー』は強烈な個性を発揮することで間違いなく成功しているのだ。
 
ベルヴィル・ランデブー公式サイト 
非常に凝った作りのサイトで色々遊べます。(お薦め)

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2004.11.18
アニメ・映画 ]
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 米国の大作アニメーション映画『ポーラエクスプレス』の公開後の興行収入が思わしくなく、早くもその巨額の制作費を回収出来ない可能性が懸念されている。しかし、『ポーラエクスプレス』のオープニング週末の数字は『Mr.インクレディブル』に開けられているとはいえ配収約3060万ドルは決して少なくない。むしろ、大ヒット映画だと言っていい。問題は、製作費約1億6500万ドルと約1億ドルと伝えられている宣伝費にある。この巨額の制作費はかつてないほど顔の動きまでリアルに再現したモーションキャプチャーを始め最新の映像技術に膨大な資金が必要としたといわれている。

 最新の技術と巨大過ぎる製作費のアニメーション。過去を振り返ってみると、これと似た構図がある。2001年に日本のゲーム会社スクウェア(現スクウェア・エニックス)が社運をかけて製作した『ファイナルファンタジー』である。製作費1億3700万ドルのこの映画の興行収入は米国で約3200万ドル、日本国内で9億円であった。結局、製作費を回収出来なかった当時のスクウェアは、約130億円の特別損失をだし、その後、資本力の懸念からソニーグループの傘下に入ることになった。この両者に共通するのは、最新の技術を使ったリアルさの追求であった。つまり、アニメーションでどこまで現実に近づけるかである。確かに驚きはあった。しかし、映画は技術の驚きだけで成り立つわけでない。

 『ファイナルファンタジー』が興行的に失敗した時によく言われたのは、本物そっくりなら本物でいいじゃないであった。つまり、人間そっくりならアニメである必要性はない。今回の『ポーラエクスプレス』でいえば、トム・ハンクスそっくりなキャラクターなら、最初からトム・ハンクスの実写映画でいいのでないか。観客が求めているのは本物そっくりのリアルな画像でないはずだ。むしろアニメ的であることのほうが重要でないだろうか。少なくとも両作品とも実写で作って製作費を抑えれば資金的にかなり楽であったはずである。そして、米国の批評サイトを見ると今回の『ポーラエクスプレス』への批判は、皮肉なことにキャラクター造形に集中している。大金をかけて実写には近づけても、実写にはならないのもまた事実である。

 結局、アニメーションの作り手が考えなければいけないのは、アニメという手段で何が出来るかである。勿論、表現する手段が違うだけで、映像表現がしなければいけない基本は同じという考え方もある。しかし、アニメを観る側は製作者の思惑通りではない。多くの場合は、実写とは違う何かを、アニメだから出来る違いをそこに求めているはずである。

ポーラエクスプレス公式サイト 
スクウェア・エニックス 

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2004.10.17
アニメ・映画 ]
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 10月17日(土)に東京ファンタステック映画祭でプレミア上映された『機動戦士Zガンダム-星を継ぐ者-』を観た。正直、もの凄く興奮している。予想以上の出来であった。素晴らしいと賛辞を与えるに相応しい作品だ。全てが想像を上回る完成度であった。ラストシーンのシャアとアムロの再会は感動的ですらあった。

 私は、ファーストガンダムを愛する古いガンダムファンの多くがそうである様にTV版Zガンダムに対して複雑な気持ちがある。本来、続編を想定せずに作られたファーストガンダムに対して、Zガンダムはそもそも存在してはいけない物語である。最初の入り口に偏見が存在する。しかも、この作品のあと直ぐにZZガンダムが製作されたように、その後に続く数多くのガンダムの始まりであり、ある意味でファーストガンダム以上にシリーズの中では重要な作品でもあるのだ。ガンダムファンとしてはアンビバレントにならざるえない。
 そして、正直、TV版Zガンダムは作品としても痛かった、後年の富野監督作品の悪い特徴の物語のとげとげしさやキャラクターや素材の消化不良が本来のテーマを上回っていたからだ。完成度においてファーストガンダムに遥かに及ばない作品、それがこれまでの私の評価だった。

 しかし、上映に先立って挨拶した富野由悠季監督の「長年、嫌ってきたZガンダムだが、こうしてみると悪い作品でなかった」の言葉通りの感想を私も感じた。Zガンダムは決して悪くない、それを今回の劇場版Zガンダムは証明しいている。
 何が、物語をこれほどまでに変えたのだろうか。答えは簡単だ、TV版Zガンダムに較べて、物語が極めてシンプルになり、余計な部分が削ぎ落とされ、より物語の本質が際立ったのだ。今回の劇場版Zガンダムの物語は全てがカミーユと戦争の出会い、そして、ラストに設定されたシャアとアムロの再会まで持って行くための手段として集約されているのだ。
 富野監督の劇場作品が、しばしば、多過ぎるサイドストーリー、キャラクターで混乱しがちなのに対し、今回の映画の中には先のテーマに関わる以外の話はほとんど出て来ない。多くのキャラクターが登場しているにも関わらず、キャラクターの登場に違和感はない。物語をシンプルにまとめあげる中で、TV版の中にあった様々な強引さが消え、全てが合理的に説明されている。既に、この後に続く第2部、第3部が楽しみになってきた。

 自分の愛する作品が改変された時に、人はどう感じるのだろうか。特に、今回の様に、物語の内容がほとんど変わってしまった時にはだ。この劇場版Zガンダムは、編集のための順番の変更や、物語のカットというレベルの話でなく、そもそも物語自体が変わっている。これまでのZガンダムを愛してきたファンは、このZガンダムこそが間違いだと思うかもしれない。私自身は、今回の『星を継ぐ者』こそが、20年の時を経て登場したZガンダムのスターンダートだと感じる。しかし、副題にさりげなく盛り込まれたNew translation(新訳)の文字がこう主張しているようにも見えた。これは、Zガンダムのリメイクでも、正しいZガンダムでもない。可能性として存在しうるもうひとつのZガンダムなのだと。そして、このもうひとつのZガンダムはアニメ史に名作と刻まれるに相応しい新しい作品だと確信出来る。

 唯一、気になった点は、新作作画部分とこれまでの映像の違和感と微妙なずれであろう。制作の際に、CG処理により両者の調和を図ったということだが、やはり20年近くに及ぶ歳月のアニメーション技術の差は覆い難い。そして、最新の技術を持ってしても過去の画像を現在のレベルにまで、引き上げる技術はない。それ以上に、作画監督による個性の違いは年月以上の相違を見せている。
『劇場版機動戦士Zガンダム-星を継ぐ者-』の唯一、最大の失敗は全作新作画像にしなかったことである。

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2004.09.29
アニメ・映画 ]
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b00005hvm2.09.MZZZZZZZ[1]  先日読んでいた押井守氏の『すべての映画はアニメに変わる』の中に『シャアは富野作品の究極の悪役』という文章があった。その文章が僕の興味を惹いたのは、押井守氏と富野由悠季監督という組み合わせの意外感であった。押井氏は商業色の強い作品は嫌いなのではないかと思っていたからだ。もうひとつ別の富野氏との対談でもそうだが、押井氏は意外にガンダムについて好意的あった。
 しかし、一番驚いたのは押井氏のこの言葉だ。
 = ガンダムは観ています。特に『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(88年)はかなりしつこく観ました。あれは特筆すべき作品ですね。=

 実はこの作品、僕の評価はかなり低いので、押井氏がわざわざこの作品に言及したのに驚いた。『逆襲のシャア』については、以前にも似たような経験がある。あるかたと話していた時に、話していて非常に頭のいい人だと判った。そして、うれしいことに感性もよく似ている。
 「やっぱ、ファーストガンダムは面白かった。」 うん、うん。OK!
 「イデオンは名作だよね。」OK!
 「ザンボット、ダイターン3は良かった。」OK!
 「∀(ターンエー)ガンダムも大傑作。」OK!
 「逆襲のシャアも面白かったよ。」 えっ?!...。

 正直、僕は富野監督の作品はかなり好きだが、手放しで全部好きなわけではない。特に、明確に作るべきでなかったと思っている作品も幾つかあって、そのひとつが『逆襲のシャア』なのだ。
 なぜ、この作品が評価出来ないかと言えば例えばキャラクター。富野監督が劇場作品を作る時にしばしば見られるのだが、不必要にキャラクターが多過ぎる点だ。わずか、2時間で全てのキャラクターの厚みを出すことは難しい。しかも、そのどのキャラクターもがヒステリックに怒鳴り、常に相手に罵っている。キャラクターは説明されないまま、次々と死んで行き、観ているほうは一体何が起こっているのか判らない。
 一体、今、死んだのは誰だっけ?という感じだ。

 だから、僕は少し前まで『逆襲のシャア』は、最大公約数的に、みんながあれは駄目だねと考えていると思っていた。ところが、この作品一部では非常に受けがいい。しかも、僕が尊敬しているような人の中にもそういった人が多い。むしろ、数あるガンダムシリーズの中でもベスト作品として挙げる人も少なくないのだ。
 そうした意見に耳を傾けると、この作品をシャアとアムロの物語、そこに焦点を合わせて高い評価しているようだ。ここが押さえられていれば、他の欠点は目をつぶることが出来るらしい。アムロとシャアの関係。人類に寛容になれないシャア。実は、僕はシャア・アズナブルというキャラクターも好きでない。嫌いというわけでないが、どうも、理解出来ない。それは、ファーストガンダムでもそうだったし、Zガンダムはもっと判らなかった。逆襲のシャアでは??である。もし、先の『シャアは富野作品の究極の悪役』文中で押井氏が述べるように、富野監督がシャアを使って言いたいことを言っているのであれば、僕は富野監督もまた理解していないのだろう。

 小説にしてもアートにしても、あるいはアニメでもいいが、昔、大嫌いだった作品が、年が経つとともに好きになる時がある。しかし、少なくとも、今の僕にはまだ、『逆襲のシャア』を好きだとか、面白いと受け取れる気持ちはない。いつか、僕でも『逆襲のシャア』を「結構、面白い作品だよ。」と言える時が来るのだろうか。そんな時、僕はどんな風に考えてこの作品を評価しているのだろうか。

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

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2004.08.09
アニメ・映画 ]
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 『スチームボーイ』の劇場公開が9月3日で終わった。製作8年、総制作費24億円をかけた大作アニメだったが、世間的な評価は、まさに賛否両論であった。良質なエンターテイメントと評価する人がいる一方で、ありきたりで面白くないとの評価も多数見られた。特に、ヘビーなアニメファンになるほど『スチームボーイ』に対して否定的になる傾向があるようだ。

 これは最終的な興行成績が、期待していた水準ほどではなかったことをうまく説明している。『スチームボーイ』の宣伝は非常に大きなものだったが、それでも比較的高年齢のマニア層を狙っていたように思える。
 しかし、マニア層は『AKIRA』のようなサイバー感覚や今までに観たことのない驚きを期待していたと思いうのだが、実際の作品はよく出来た健全なエンターテイメントであった。これに失望した人が多いのでないだろうか。
 つまり、マーケティングとして狙った層から一番厳しい評価を受けたことになる。『スチームボーイ』を面白いと思うのは、ジブリ映画やハリーポッターやロードオブザリングといったハリウッドの大作映画を面白いと感じる層だったのでないだろうか。不幸なことに、作品はこの層にほとんど達することなく終わった。
 それは、大友克洋監督作品!SF大作!といったジャパニメーションのイメージが強く成り過ぎたからかもしれない。

 僕自身は『スチームボーイ』を非常に楽しだ。2時間を越える上映時間は若干長かったが、時間を持て余すことはなかった。噂に違わない素晴らしい画像に、よく練られたストーリーはさすがだったし、個人的にイギリスが大好きなこともあり、驚くほど忠実に再現された19世紀のイギリスの風景にはかなりのもであった。
 おそらく、今、制作者が『AKIRA』のようなサイバーSFの作品を提示しても、80年代の『AKIRA』の衝撃を越えることは不可能であろう。SF表現や過激な演出表現はあまりにも一般化していりからだ。だから、大友監督が敢えて誰でも楽しめるエンターテイメントを制作したことを積極的に評価したい。

スチームボーイ公式サイト 
スチームボーイ公式ブログサイト 
AKIRA公式サイト

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2004.07.24
アニメ・映画 ]
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 最近、アニメのビデオを買いにまんだらけによく行く。本当は、収納の問題もあるからDVDの方が良いのだが、なにしろ中古のビデオは安い。この安さを見ると、見るだけならビデオでしょ!と思ってそっちに流れるしかない。
 なにしろ、1枚3000円、4000円、5000円といったDVDに較べると600円と1000円と格安だし、何よりもビデオでしか見れないマイナーアニメも少なくないのである。

 それでもって、『超人ロック魔女の世紀』なんてビデオを買ってきた。そして、そいつを、3日がかりでみた。2時間という時間がまとめて取れないので細切れでみた。
 しかし、この作品って1984年のまさにアニメブームのど真ん中で作られたのだがストーリーは、いかにもなSFでこの時代を息吹とともに懐かしさを感じさせられた。

 でも、一番気になったのは画面の絵。本当にセル画、セル画していてセルアニメだ~って感じなのである。平面的というか、単調な色使いというか。これは別が嫌とかでなくて、「あっ!これがアニメだよ!」っていう心地よさなのだ。おそらく、この同時期に公開された、劇場版『マクロス』とか劇場版『イデオン』からアニメの絵ってどんどん高度化していったんじゃないかなと思うのだ。
 だから、この『超人ロック』は、そうした作画の高度化の波に乗れなかった平面的なアニメの最後の一族だったんだなと思いつつ感慨深く見たのであった。

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2004.05.02
アニメ・映画 ]
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 現在劇場公開中の『アップルシード』を観に行った。実は5月1日が映画の日で、1,000円で観られるというのが最大の理由だ。そして、1,000円なら観るよというのは、僕的には、アップルシードにあまり期待していなかったことの現われでもある。ところが、この作品かなり面白かった。

 具体的なストーリーについては、観れば判る話なので語らない。アップルシードについて語らなければいけないのは、エンターテイメントとしてのアニメは何かということだ。アップルシードの面白さは、ごく当たり前のストーリーを一生懸命作る、観客をいかに楽しませるかについて周到であるといったエンターテイメントの基本の部分で極めて真っ当な作品だということだ。それは、近年の子供向けでないアニメがしばしば無視しがちだったことでもある。
 誰が観ても判るストーリー、ドキドキハラハラする展開、物語を進めていく中で散りばめられた謎、話のどんでん返し、ハッピーエンド、これらは、本来的に観客が望んでいるものであるし、それこそが作品を面白くする要素なのだ。
 あるいは、ベタかもしれない、しかし、それだけの要素を使いながら、きちんとオリジナリティ確保している。アップルシードを傑出した名作という人はいないであろう、しかし、これを観てつまらないと言う人は少ないだろう。

 アップルシードを観る時、原作が共に士郎正宗であり、ほぼ同時期に公開されたこともあり『イノセンス』を意識しないわけにいかない。しかし、原作が同じであること以外に両作品の物語、演出上の共通点はあまり見出すことが出来ない。それは、観客に向かって作られたエンターテイメントと、作り手が自らの内側に向かって行ったイノセンスとのそもそもの基盤の違いである。
 共通点は、物語の本質でなく作画法にあった。それは、高度の3Dアニメーションの多様である。しかし、3Dのテクニックの素晴らしさに驚嘆する一方で、2Dと結びつかせた時の妙な違和感こそが共通なのだ。つまり、コンピュターから派生したCGやモーションキャプチャーの映像とセルアニメの延長から生まれている人物画とが妙に画面でずれている。
 特に、アップルシードでは、人物自体も3Gが多用されているのだが、明らかにモーションキャプチャーから作られた映像とアップになった時の顔とでは異質なものがぶつかり合い違和感を与えている。ちょうど、写真に手書きのイラスト貼りつけたような印象とでも言うのだろうか。技術の革新が進めば、この問題は解決されるのだろうが、おそらく、それはより実写に近づきセルアニメの表現方法から遠ざかっていくことに違いない。

 今年の劇場アニメは、『イノセンス』や『ハウルの動く城』、『スチームボーイ』など大作が目白押しだ。アニメじゃないがアニメから実写化された『キャシャーン』、『キューティーハニー』、『デビルマン』などの話題作も多い。
 アップルシードは、その狭間に落ち込んであまり話題になることが少なかったように思う。しかし、その期待感の薄さの中で見事に咲き誇ったB級大傑作アニメだ。
 イノセンスのような哲学も、ハウルの持つ文学性も、スチームボーイが持つ安心し観られるエンターテイメントでもない。しかし、その中で確かな存在感を放っている。アップルシードの中にこそ、現代日本アニメの面白さの本質が存在する。

アップルシード公式サイト
株式会社デジタルフロンティア 
イノセンス公式サイト   
ハウルの動く城公式サイト 
casshern公式サイト 
キューティーハニー公式サイト  
デビルマン公式サイト 

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