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斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」
第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)
興行会社が主体性を持って上映を決めた「宇宙戦艦ヤマト」=前編
斉藤守彦
クールアニメの原点「宇宙戦艦ヤマト」は、1977年夏に劇場公開された作品だ。そのバックグラウンドについては、数々のエピソードが残されている。低視聴率に終わったテレビ・シリーズを再編集したバージョンを、西崎義展プロデューサーが映画館で上映しようと企て、渋谷の東急名画座を1週間だけ貸して欲しいと、同館を経営していた東急レクリエーションにオファー。だが試写を見た東急サイドは、夏休み番組として都内4館での上映したい旨を西崎Pに伝えてくる。
今回は、この「ヤマト」上映までのエピソードを、映画館を経営する興行関係者の動きと、そこで行われた宣伝展開などについてスポットを当て、当時を知る関係者の証言などをもとに検証してみたいと思う。
【東急レクリエーションの“身軽な位置”が、「ヤマト」上映を可能にした】
西崎Pが「ヤマト」のオファーを行い、東急レクリエーションのために試写を行ったのは、1977年の5月。ゴールデン・ウィーク開けのことだと言われている。この試写会には東急レクリエーションから、堀江鈴男興行部長と武舎忠一編成課長(いずれも当時の役職)が出席。ふたりとも「ヤマト」をたいそう気に入り、鑑賞後の評価も高く、自社陣営での上映を希望する。
まずはこのエピソードを検証する前に、東急レクリエーションという興行会社の、当時の映画市場における位置について説明する必要があるだろう。
東急レクリエーションは、1977年当時、東京都内に渋谷パンテオン、新宿ミラノ座といった、座席数1000席以上の大劇場を所有していた。パンテオンのある渋谷東急文化会館には、渋谷東急、東急レックス(後の「渋谷東急2」)、東急名画座(後の「渋谷東急3」)が、歌舞伎町の新宿東急文化会館にはミラノ座(現「新宿ミラノ1」)の他新宿東急(現「新宿ミラノ2)」、名画座ミラノ(現「新宿ミラノ3」)が、それぞれ営業中。また銀座東急、池袋東急、上野東急と、山手線内の各地区にロードショー劇場、名画座を擁していた。
映画館で上映する作品は、すべて支配人やオーナーが決めていると思われがちだが、それは違う。個人経営の座館ならばいざしらず、松竹、東宝、東映、東急レクリエーションのように、複数の営業拠点を持つ場合、上映作品(番組)は、原則的に経営する会社の番組編成担当者によって決定する。またいかなる場合においても、興行会社の取引相手は配給会社であり、配給会社からフィルムの供給を受けることで、映画館は初めて営業が可能になるのである。
東急レクリエーションが所有するパンテオン、ミラノ座といった大劇場で上映される新作は、全国公開を前提とした作品であることが多く、東京以外に直営館を持たない同社は、ローカルでの展開に関して松竹と提携し「松竹・東急委員会」を結成。東急と松竹の映画館をチェーン化し、配給会社の要望に応えていた。よく「全国松竹・東急系にて公開」というフレーズを広告などで目にするが、その「全国松竹・東急系」の実体が、両社が経営する映画館のチェーンなのである。
こうした映画館チェーンには、中心となる「チェーンマスター」なる映画館が存在し、その映画館を経営する興行会社が上映作品を選択・決定していた。例えば松竹・東急系の丸の内ピカデリー系では丸の内ピカデリーがチェーンマスターで、同館を経営する松竹が上映番組を決定するが、パンテオン系の場合は渋谷バンテオンを経営する東急レクリエーションが、チェーンの上映番組を決定し、松竹・東急委員会で調整を行うという具合だ。
当初東急名画座(当時はその名の通り、旧作を上映する名画座で、時折拡大上映の際にロードショー番組の上映に援用されていた)で、1週間のイベント上映を希望した西崎Pに対して、東急レクリエーションの堀江部長が提案したのは、銀座東急系4館での上映であった。
銀座東急系とは、銀座8丁目で営業していた銀座東急をチェーンマスターに、渋谷・東急レックス、池袋東急、新宿東映パラスで編成されるチェーンであった。ただしこのチェーンの場合、パンテオン、ミラノ座のような大作ではなく、どちらかといえばB級作品が年間番組の大半を占める劇場網だ。「ヤマト」上映の前年「恐竜の島」「地底王国」といったB級SF映画を上映して好成績を上げるが、それでも配給収入1.3〜1.5億円といったレベル。つまり、東急レクリエーションとしても「ヤマト」の上映を決めたものの、興行価値はその程度と判断していたのである。
それでもチェーン公開、夏休み上映というあたりは英断と言える。都内にのみ直営館を持つ東急レクリエーションとしては、それらの映画館から上がる収入が、会社経営に大きな影響を及ぼしがちだ。作品選択の失敗は、イコール減収につながる。だが逆に考えれば、直営館が都内にしかないことは、全国規模の興行を想定しなくても良い、ある意味身軽な立場だということをも意味する。これが当時、有楽座、日比谷映画といったA級ロードショー劇場を経営していた東宝や、東急レクリエーションと提携関係にある松竹となれば、最初から全国規模での上映が前提となってしまう。「ヤマト」の場合、東急レクリエーションの、その身軽な立場が意思決定に反映されたのである。
現在は同社も各地にシネコンを持ち、つまり全国規模の興行網を所有する立場故、プロデューサーが直接持ち込んだ作品を、配給会社を通さずに上映することは、まず不可能であろう。ましてや低視聴率で打ち切りになったアニメ・シリーズの再編集版が受け入れられるとは、とうてい考えられない。
また東急レクリエーションがアニメ映画について理解を示したのは、1960年代にパンテオン、ミラノ座でウォルト・ディズニーの「101匹わんちゃん大行進」「眠れる森の美女」を上映していたことに加え、日本ヘラルド映画配給による虫プロダクション作品「千夜一夜物語」「クレオパトラ」など、大人をターゲットにしたアニメ映画を上映した実績から、アニメ映画の持つビジネスとしての可能性に、注目していたからだろう。
【10代と40代が、「ヤマト」の熱烈な支持層だった】
この“英断”に対して、こんなことを指摘する御仁もいる。
「あの頃堀江さんたちは、確か40代だったはず。戦争も経験されていただろうから、戦艦大和が空を飛ぶことに対して、きっと思い入れがあったんだよ」と、当時の興行事情を知る関係者。
なるほど。堀江と武舎が試写を見て「面白い!!」と評価したのは、確かにそういう背景もありそうだ。「ヤマト」が大ヒットした後、「キネマ旬報」に掲載された西崎Pと黒井和男編集長(当時)の対談でも「この作品を見た人の感想を集めると、不思議なことに20代の人間は、まあまあですね、みたいな話しかしない。それに反して、10代と40代以上が圧倒的におもしろいと支持しているという、ジェネレーションの差が出てくる。私も同じ年配ですから(対談当時、西崎Pと黒井氏は、ともに42歳)、分かるんですが、この映画の発想そのものが、私たちの世代のものですね」と、黒井が語っている。「宇宙戦艦ヤマト」の劇場公開を可能にしたのは、戦争経験者たちの思い入れであるという指摘は、的を得ているように思う。
いずれにせよ、配給会社がラインアップした作品を待つばかり。受け身の姿勢になりがちなのが興行会社の宿命的な欠点だが、映画館や興行会社が配給会社を通さずに、直接プロデューサーとの間で作品上映を決定してはいけないという法はない。もちろん「商習慣」として、そのようなことは敬遠されてはいたが。1977年当時の東急レクリエーションは、そうした習慣を打ち破り、自ら主体性を持って作品を受け入れ、その興行価値を判断し、ヒットさせるべくプロデューサーと万全の手を尽くした。当時としてはきわめて珍しいことである。
第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)「宇宙戦艦ヤマト」=前編-1
第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)「宇宙戦艦ヤマト」=前編-2
[筆者の紹介]
斉藤守彦
1961年生れ。静岡県浜松市出身。
映画業界紙記者、編集長の経験の後、映画ジャーナリスト、アナリストとして独立。「INVITATION」誌で「映画経済スタジアム」を連載するほか、多数のメディアで執筆。データを基にした映画業界分析に定評がある。「宇宙船」「スターログ日本版」等の雑誌に寄稿するなど、特撮映画は特に得意な分野としている。
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