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2009年05月25日
0斉藤守彦の特殊映像ラボラトリー ][ クールアニメ・マーケティング・ヒストリー ]
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斉藤守彦の「特殊映像ラボラトリー」

第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)
興行会社が主体性を持って上映を決めた「宇宙戦艦ヤマト」=前編-2

斉藤守彦

【“仕事だから”引き受けた、徳山雅也の「ヤマト」宣伝】

 とにかく商業劇場で作品を公開する以上、宣伝が必要だ。東急レクリエーションの堀江部長は、西崎Pに対して、メイジャー・エンタープライズ(現・メイジャー)宣伝部に所属する、徳山雅也を紹介。彼を「宇宙戦艦ヤマト」の宣伝担当に起用することを進言した。
 「僕はそれまでアニメというものを、あまり見たこともないし、仕事でも携わったことがありませんでした」という徳山。彼はそれまでメイジャーで「タクシー・ドライバー」「未知との遭遇」といった、外国映画のパブリシティを担当していた。
 「では、なぜ『ヤマト』の宣伝を引き受けたのですか?」という、こちらの質問に対して「仕事だからです」と、徳山はきっぱり言いきった。「もっとも、当時は映画の宣伝代理店ってメイジャーぐらいしかなかったんですけど(笑)」。
 ともかくも堀江の進言を西崎Pも受け入れ、宣伝作業の実務は徳山とメイジャーが行うことになった。
 「最初にやったことは、どんなことですか?」
 「まずは広告出稿を行いました。ただしそれは、一般の観客にではなくて、全国にいる『ヤマト』のファンを対象とした広告です。新聞に出稿するほどの資金的余裕がありませんでしたので、スポーツ新聞、当時のスポーツニッポンに下3段の広告を、6月ぐらいに出しました」

 その広告を、国立国会図書館のマイクロフィルムから発見することが出来た。1977年6月16日付のスポーツニッポン14面。「日本中のヤマト・ファン全員集合!」と大きく書かれた惹句の下には「『ヤマト』のファン・クラブとファンの方々のために事務局を設立いたします。活動状況を、手紙又は電話でお知らせ下さい。(セル、その他資料の提供を考えております。)」との一文。さらに下の部分には「お申し込み・ご連絡は」として、当時西崎Pの事務所であった、株式会社アカデミーの所在地と電話番号が書かれている。まさしく「ファンに向けての広告」だ。
 実はこの時16歳だった筆者は、故郷で友人たちと「宇宙戦艦ヤマト・ファンクラブ『アルカディア』」なるFCを結成し、同人誌の発行などを行っていた。ある夜、FCの中心だった友人から電話があり、「今、西崎さんの会社から電話がかかってきた!」と、興奮した声でまくしたてる。「ええっ!!??」
 自分たちが夢中になっている作品の、プロデューサーが所属する会社から電話があった。地方の高校生たちにとって、それは天地がひっくり返るほどの衝撃であったのだ。 

 「で、なんだって?」
 「ヤマトのセル画をあげますって言われた・・」
 「セル画ぁ?」

 正確に言えば、セル画プレゼントには、ある条件があったはずだ。
 「雑誌に“こんど「ヤマト」の映画が公開されるんです”といったことを投稿して欲しい。あるいはラジオ番組に主題歌や挿入歌のリクエストをしてくれといったことを、それこそ何千通という数の手紙を書いて、全国のファンに依頼するわけですね」と徳山。つまり、当時全国5万人と言われた「ヤマト」ファンによる、草の根作戦だ。
 「当時の西崎Pは、とにかくファンを大切にしました」という徳山の証言を裏付けるように、ファンに向けた広告出稿、そして配給会社の表記がない(「提供・株式会社アカデミー」とのクレジットのみ)映画広告は、当時としては珍しく、またアニメ制作に使用したセル画や資料をファンに放出し、それを広告で告知することも、前例のない手法であった。
 そして西崎Pとメイジャー・徳山の狙いは当たった。広告が出るやいなや、前売り券の売れ行きが爆発的に伸びたのである。
 
【「まずアニメという言葉を認識させる」ことを目的に、記者会見を開催したが…】

 「宣伝として、次の一手は?」
 「はい。記者会見を開こうということになりました」
 「記者会見?」
 「今でこそアニメという言葉は一般的に使われていますが、当時は“まんが”だったわけです。子供が見るもの、という認識しかない」
 「分かります。僕も『もう大きくなったのだから、まんがは卒業しなさい』って、中学の頃親に言われて、無理矢理『卒業』させられました(笑)」
 「でも『ヤマト』は明らかに違っていたわけです。この作品のターゲットは子供じゃない。中学生や高校生の、いわゆるティーンエイジャーだと我々は考えました。だから『まんが』ではなく『アニメ』。『これからは、アニメ映画の時代だ!!』とブチ上げ、東京・九段グランドパレスを皮切りに、5大都市で記者会見を行い、そこで西崎Pに大いに語っていただいたんです」

 今となっては信じられないことだが、1977年における世間の認識は、そういうレベルであった。中学や高校に進学してもアニメに熱中しているのは、「未だまんがから卒業できない、幼稚な連中」とのレッテルを貼られていたのは、筆者も同じだ。
 徳山の記憶によれば、これも1977年の6月、東京を始め複数の都市で記者会見を開催したとのことだが、あいにくその痕跡が見あたらない。「記者会見の会場で、当時の日刊スポーツのベテラン記者から“ちょっと徳さん、この『アニメ』って何なのよ?”と聞かれた」とのことなので、当時の日刊スポーツのマイクロフィルムを探索したのだが、残念ながらそれらしい記事は発見出来なかった。
 唯一6月27日付の読売新聞夕刊「娯楽」欄に、「テレビの人気アニメ…『宇宙戦艦ヤマト』 劇映画で八月公開」という記事が、事実関係のみを記述した形で(いわゆる「ベタ記事」)、小さく掲載されている程度だ。その記事の上には「『ジョーズ』をしのぐ出足」との見出しで、「惑星大戦争」「八甲田山」の、当時日米で大ヒットしていた2作品の話題が、大きく写真付きで扱われていた。「惑星大戦争」とは、後に「スター・ウォーズ」として公開されるジョージ・ルーカス監督のSF映画だが、アメリカでは77年夏に公開された「スター・ウォーズ」の日本公開が、翌78年夏と1年遅れになることが、「ヤマト」にとって追い風になろうとは、この時点では知るよしもなかった。

 7月18日の読売新聞夕刊に、広告を掲載。東急レクリエーション上層部が懸念した配給会社不在の件も、東急系列にある東映の洋画配給部が引き受けることになり、都内は西崎のアカデミー、それ以外の都市は東映洋画配給部の扱いとなった。初日も8月6日と決定。徳山による宣伝活動も、いよいよ終盤に突入した。
 (以下、後編に続く!)
 
 (文中敬称略/取材に応じて下さった皆さんに、心より感謝します)

第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)「宇宙戦艦ヤマト」=前編-1
第8回 クールアニメ・マーケティング・ヒストリー(4)「宇宙戦艦ヤマト」=前編-2

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posted by animeanime at 2009.05.25
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