「君たちはどう生きるか」このタイトルでなくてはならなかった理由―【藤津亮太のアニメの門V 第97回】 3ページ目 | アニメ!アニメ!

「君たちはどう生きるか」このタイトルでなくてはならなかった理由―【藤津亮太のアニメの門V 第97回】

『君たちはどう生きるか』は、シンプルなストーリーの上に、この世界の様々な要素をモザイクのように散りばめた作品だ。これらをひとつのルールで読み解いてしまうということは、それは単なる寓話化に過ぎなくなってしまうのではないだろうか。

連載 藤津亮太のアニメの門V
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作中の説明によると、御一新の少し前に宇宙から降ってきた石が塔の前身だという。その後時間が経った後、石の周囲を塔で覆ったのが大叔父だったという。大叔父は、塔の中の自室で過ごすうちに、姿を消してしまったのだという。大叔父が塔の中に持ち込んだインコたちは進化して王国を形成している。インコたちは、『千と千尋の神隠し』でカエルの姿で書かれた「現代の会社員たち」の延長線上にあるキャラクターに見える。それは不条理でありながらも、生命の本質に近いところで生きるペリカンと対照的だ。  

大叔父は、「塔の世界」において神のごとき管理者として生きている。石の積み木を重ねて、世界のバランスを保つのが、大叔父の仕事である。インコ大王は、彼に一定の敬意は払いつつも、自分たちに塔の管理を委ねるべきだとも考えている。  

そもそも大叔父は「塔の世界」でなにをしようと考えたのだろうか。これは作中ではまったく描かれていない。しかし、インコたちが極めて戯画化された「人間社会」を演じているのを見ると、自分の手で「近代化社会」を作り出そうとしたのではないか、という想像はできる。それは大叔父が生きた時代がおそらく明治時代で、日露戦争で日本が「近代国家」であるという証をたてようとした時代であることとも関係があるだろう。  

読書家であった大叔父は、異世界の中に自分の夢見た「近代社会」を構築しようとしたのだろう。しかし皮肉なことに、現実の世界で近代化した日本が敗戦を迎えようとしているのと平行し、近代化を目指した大叔父の「塔の世界」も限界が近づいていた。  

その理由は画面から「インコたち(=人間)が近視眼的消費者でしかないから」とか「近代化を掲げながら、産屋のような前近代的システムに頼っているから」などいくつか考えられる。が、作中で一番具体的なヒントとして示されているのは「悪意」の存在だ。
眞人が大叔父と対峙するシーンは2回ある。  

1回目は、インコにとらわれた眞人の夢の中。この時、大叔父は、自分が積み上げた積み木によって世界のバランスを保っている、と説明をする。そして、この仕事は自分の血統にしか継げないから、眞人に継いでほしいと迫る。しかし眞人は「それは木じゃない。石だ。墓と同じ悪意の石だ」と断る。
ここで唐突に「墓」の話が出てくる。これは映画序盤、眞人がペリカンに襲われ、入り込んでしまった墓のことだろう。その門には「ワレヲ学ブ者ハ死ス」と書いてあった。  

2回目の時は、大叔父は(おそらく1回目の眞人の反論を踏まえ)、「悪意に染まっていない石」を13個揃え、これを3日に1つずつ積んで、眞人の塔を建てろと命じる。
今度は眞人は頭の傷を示し「この傷は、僕の悪意の印です。僕は、その石には触れません。夏子お母さんと自分の世界に戻ります」と宣言する。  

大叔父と眞人の対立は「悪意」をめぐってのものであり、それは「墓」と関係があるということになる。そして大叔父は「悪意」がないことにこだわりを持っている。
結論から書くと、ここで「悪意」と呼ばれているものは「影」ではないだろうか。
アーシュラ・K.ル=グウィンはこう書いている。  

「影はわたしたちの心の裏側にいる、意識的自我の暗い兄弟です。」「影とは単なる悪ではありません。より劣ったもの、原始的で、不格好で、動物的で、子供っぽく、一方で大きな力を持ち、生気にあふれ、自発的なものなのです。(略)影なくしては人間は無にすぎません。」(『夜の言葉 ファンタジー・SF論』)  

大叔父は「塔の世界」に足を踏み入れ、自分の世界を作り始めた時、自らの影を“殺し”“埋葬”したのではないか。それがあの墓であり、「影」を学ぶことは危険であるという、自らの言葉で封印したのではないか。
しかし、そんなに簡単に「影」を殺してしまうことなどできない。大叔父が人間である以上、影はそこに寄り添ってあるはずだ。だから、大叔父が毎日手を加えている「石の積み木」は、墓の石と同じ「悪意」が宿ることになったのではないか。  

ただ大叔父は、眞人の発現の意味を理解できなかった。眞人は「大叔父の影」を受け継ぐことはできないと言っているのだが、影を切り捨てた大叔父は「影」そのものが問題だと理解したのだ。だから「悪意のない石」を改めて用意することになる。  

だから改めて眞人は「自分の悪意=影は自分とともにあり、それを切り離すことはしない」と宣言して「悪意のない石」に触れることも拒否するのである。この「影」を否認しながらも、近代化を試みようとする大叔父の姿勢こそが「塔の世界」をアンバランスにしていたのではないか。  

「塔の世界」のもっとも原始的なところにある墓所。そして「自分自身の葛藤を乗り越えるために意識された悪意=影」。別々のことを描いてきた2つのエピソードが、最終的に「悪意=影」という主題で統合される形で、3つ目の大叔父とのエピソードは語られているのだ。  

「子どもは自分自身の影になら向かっていくことができ、それをコントロールしたり、それに道案内させたりすることを学べるでしょう。そして大人になり、社会の一員としての力と責任感を身につけたとき、世のなかに行われている悪に直面しなければならなくなっても絶望して気力を失ったり、自分の眼にしているものを否定したりすることの少ない人間におそらくなれるでしょう。わたしたちの誰もが忍ばなければならない不正や悲しみや苦痛、そしてすべてのことの終わりに待ち受けている最後の影に直面するときにも」(前掲書)。  

書籍『君たちはどう生きるか』は、社会科学的なものの見方を通じて倫理を説いた。映画『君たちはどう生きるか』は、ファンタジーの言葉を使って「影」とともに生きることを説いている。  

映画のラスト、大叔父の夢見た「近代化」の塔は崩れ落ち、日本もまた敗戦を迎える。その後に残されたあろう焼け野原こそが、多くの人が生きている混迷の現代と重ねられている。ちょうど『もののけ姫』が室町後期の社会転換を現代と重ね合わせて描かれていたように(『もののけ姫』のエンドロールが、どうなるかわからない未来を暗示するため黒バックだったように、今回のエンドロールも青バックのみで進行する)。だからこそ本作はこのタイトルでなくてはならなかったのだ。  


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